… 
the seabed … 1










『君と寝てみたいな』


初めて男に会った時に言われた言葉が今の俺には救いだった。























「もう、着くよ」

「…はい」

車のハンドルを操りながら微かに微笑んで言った男に俺は返事を返した。
























『…彼女といると落ち着くんだ』


昨日、1年付き合った男に言われた言葉が蘇ってきた。


『巧己(たくみ)は僕には勿体ないと思うんだ』


彼女といると落ち着くということと自分には俺が勿体ないということがどうして繋がるのか
俺には分からなかった。

どこまでも平凡な恋人の誠一は俺と別れるのに陳腐な別れセリフを俺の目も見ずに
言った。


『巧己には僕よりも、もっと素晴らしい人が現れるよ』


別れセリフはどこまでも陳腐で、その陳腐さに俺は


『…ああ、そうなんだ』


という返事しか出来なかった。











別れたという実感は誠一が俺のマンションを出て行ってから、1時間くらいしてから
湧いてきた。

もう、会うこともないんだ。
キスをすることも抱き合うことも。

そう思うと少し胸が苦しいような気がした。

なんて言うんだろう、ほら、しいて言うなら夜の海に投げ出された感じ。

周りは真っ暗でどっちが上か下かも分からない。
そんな不安定な場所に一人ぼっちにされた感じ。

ヤバいな。
これは結構、キツイかもしれない。

でも、よく考えればそれもその筈だ。
この1年間、俺は自分で言うのもなんだけど今までの俺からは想像もつかないくらい
頑張ってきた、と思う。

女の子じゃないから操を守るという言い方はおかしいかもしれないけど、誠一以外の
男を全部切って、誠一だけを見てきた。

だからって誠一を恨んでる訳じゃない。

だけど。

あぁ、頑張っても振られる時は振られるんだ。

一人ぼっちのマンションでベッドに寝転んで、そう口にしかけて止める。

振られる。

そうか、俺は振られたんだ。
なんだ、振られたのか。

横向きに姿勢を変える。
目頭が熱くなってきて。
でも、泣きはしなかった。

女の子じゃないんだから失恋で泣くなんて情けない。

でも、一人ぼっちでベッドに寝転んでいると、どんどん夜の海の波に飲まれそうで俺は
テーブルの上に置いたままになっていた携帯を見つめた。

友人達に電話する気にはなれなかった。


『ほら、言っただろ?やっぱり、お前とあのリーマンじゃ合わないって』


言われることは想像がつく。
誠一と付き合うと言った俺に友人達は口を揃えてそう言った。


『お前があの平凡なリーマンで満足出来る訳ないって』


派手な顔の造りのせいで得もしたけどそれに負けないくらい損もした。
でも、今はそんなこともどうでもいい。

本気になったって振られるなら前の生活に戻ろう、そう思った。























『君と寝てみたいな』


男の名前は有吉稜一(ありよしりょういち)俺の働いているバーの常連だ。


『うちの新しいスタッフの巧己君です。巧己君、こちらはうちの常連の有吉さん』


マスターの紹介に俺は軽く会釈した。


『こんなに綺麗な子がスタッフになったんじゃ益々、ここにしか来れなくなるな』


理知的な顔立ちの中に微かに漂う軽薄さ。

遊び慣れた大人の男。
それが有吉さんの第一印象だった。


『早速、うちのスタッフを口説かないで下さい。巧己君も有吉さんには気を
 付けるんだよ』


マスターは微笑を浮かべてそう言うと別の常連さんに呼ばれ行ってしまった。


『ターキー、ロックで貰えるかな?』

『はい』


有吉さんのオーダーに俺はそれを差し出した。


『ストライクゾーンど真ん中』

『はい…?』


何故、急に有吉さんが野球の話をしだしたのか分からなかった。
俺の問掛けに有吉さんは頬杖を付くと微かに笑った。


『君のことだよ』

『僕のこと、ですか…?』

『そう。まさに俺のタイプ。ストライクゾーンのど真ん中』

『それはありがとうございます』


こんな仕事をしているのだからこんな言葉くらいは軽くかわせるようになっていた。
でも、有吉さんは言葉を続けた。


『君と寝てみたいな』


ストレートな有吉さんの物言いに俺は軽く困ったように笑った。


『随分、ストレートなんですね』


大抵はこちらの様子を窺いながら、かわされた時に自分のプライドが傷付かないように
ストレートなことは口にしない。
それが今までの俺に言い寄る男のパターンだった。


『まどろっこしいことは好きじゃないんだ。どんな言葉を並べたてたところで
 行き着くところは同じだろう?』


その通りだと思った。

どんなに耳触りのいい言葉を言ったところで最後に男達が求めてるのは俺との
火遊びだ。

見栄えのする俺をまるで自分が勝ち取った戦利品のように見せびらかせて優越感に
浸る。
結局は自分が優越感に浸りたいだけ。
俺の人格なんてどうでもいい。

必要なのはアクセサリーとして見栄えのする俺のこの容姿だけ。

親から貰ったこの容姿は俺にとってコンプレックスだった。


『俺と寝てみないか。君を満足させる自信はある。君は必ず、俺を好きになるよ。
 君には俺くらいの男が釣り合う』

『随分と自信がおありなんですね』

『自信と口先がものをいう仕事なんでね』


普通の男が言おうものなら、自意識過剰の馬鹿にしか思えないセリフも有吉さんが
言うと何故か微笑ましかった。


『有吉さんにそこまで言って頂けるような人間じゃありませんから』


営業用の微笑みを浮かべ、当たり障りのない返事を口にする。
それがこの仕事の決まりだ。

簡単に本当の自分は見せない。

あっさり本当の自分を見せると相手は興味を失って店に来なくなる。
まるでホステスのようだけど、俺にはそれは夜の世界でやっていく為の決まりの
ような気がした。


『最初はかわされて当然、てね。何事も初めから上手くいったんじゃ面白くない。
 君ほどの美人を手に入れるんだ、長期戦は覚悟するよ。とりあえず、今日は
 お近づきの印にこれ』


有吉さんはそう言うと胸の内ポケットからカードケースを出し、その中から取り出した
名刺を俺に差し出した。


『何時でも、君の気が向いた時に電話してくれ。君に限り、24時間どんな相談でも
 受け付けるよ』

そんなセリフと共に差し出された名刺には“有吉法律事務所、弁護士、有吉稜一”と
記されていた。




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