… 
the seabed … 2










下手な慰めの言葉は聞きたくなかった。

だから、有吉さんに電話をした。

又、誠一と出会う前のような生活に戻ろう。
適当な駆け引きと快楽。
決して傷付かない上辺だけの関係。

そんな昔の自分に戻る為には有吉さんが必要だった。























5分早く着いた待ち合わせ場所には既に有吉さんの姿があった。
携帯を耳にあて、何かを話している有吉さんの顔付きは真面目そのものでバーでの
有吉さんとのギャップに俺は少しだけ声を掛けることを戸惑った。

有吉さんから2mほど離れた所で立ち止まっている俺に有吉さんが気付く。
俺に気付いた有吉さんは目を細め、バーで見慣れた微笑みを浮かべた。























『食事は俺のよく行く店でいいかな?』


突然の俺の電話の理由を有吉さんは聞かなかった。

有吉さんの行きつけの店はカウンター席とテーブル席が二つだけのこじんまりとした
多国籍料理の店でその店のマスターを有吉さんは高校時代の友人だと言って
紹介してくれた。

肩までは有るだろう長い髪を後ろで一つに縛り、不精髭を蓄えたマスターは個性的な
人だったが初対面の俺にも優しく話掛けてくれた。


『有吉がここに人を連れて来るなんて初めてなんだよ』


有吉さんが少し席を外した時にマスターは悪戯な笑顔を浮かべ、そう言った。

その店は所狭しと異国雑貨が飾り付けてあるというよりは無造作に置かれていると
いった感じなのに、不思議と調和がとれていて何故か心を落ち着かせた。
お客さんもカップルよりは男性同士や女性同士、もしくは一人で来ている人が多かった。

多国籍の雑貨と料理、そして微かに香る料理に邪魔にならないお香の香り。
異国の雰囲気しかない店なのに何故か懐かしい。

いつもバーでは本気か冗談か分からない軽いノリで俺達スタッフを楽しませてくれる
有吉さんだけど、弁護士という仕事柄、俺達の仕事とは違うストレスが有る筈だ。
そして、そのストレスを唯一、癒すことが出来る場所がここなのかもしれない。

俺は何をしてたんだろう…

有吉さんというお客さんのストレスを少しでも癒して元気にして帰すのが俺の
仕事なのに。
有吉さんが楽しませてくれるのに甘えて俺は自分の役目を果たしていなかった。
それなのに今だって俺は自分の失恋なんてプライベートなことで有吉さんを呼び出して、
有吉さんに甘えようとしている。

そんな自分が俺は無性に恥ずかしくなった。























『急に無口になったんだね。さっきの店、あんまり巧己君の好みじゃなかったかな?』


『…いいえ』


アルコールを口にしていない有吉さんが運転する車の助手席で俺は顔を横に振った。


『じゃあ、もう少し、付き合って貰ってもいいかな?』


『…はい』


呼び出したのは俺なのに、有吉さんはまるで自分が誘ったかのような言い方をした。


























穏やかなジャズが流れる有吉さんの車は高速にのり、しばらく走って高速から降りた。

大きな倉庫と大型トラック。
湿気を含んだ風と潮の香りに港に着いたことが分かった。


「もう、着くよ」

「…はい」

車のハンドルを操りながら微かに微笑んで言った有吉さんに俺は返事を返した。

それからも車は暫く走って、有吉さんが車を停めたのは海水浴場の近くにある
パーキングだった。

海開きはまだなものの既に都心は毎日30度を過ぎる気温を記録していた。






















「到着。浜辺に降りようか」

海に来たのなんて久し振りで戸惑う俺の横で有吉さんはスーツの上着を脱ぎ、
ネクタイを外すと靴下も脱ぎ、それらを車の後部座席に投げた。

「ビーチサンダルはトランクに入ってるから。巧己君には少し大きいかも
 しれないけどね」

子供のような笑顔を俺に向けてから有吉さんが車を降りる。

「有吉さん?」

俺もどうしていいか分からないまま有吉さんの後を追って車を降りる。

車の外に出ると静かな波の音と潮の香りが俺を出迎えてくれた。

本当に海に来たのなんて久し振りで。
まるで、人間の心臓の音のような規則正しい波の満ち引きの音に懐かしくなって俺は
少しの間、立ち止まってその波の音に耳を傾けた。




















俺と有吉さん以外誰もいない夜の海で有吉さんは俺の手を引いて浜辺を歩き出した。

浜辺に打ち寄せる波が足を濡らす。
昼間の暑さのせいで海の水は冷たくなかった。

自分の足が感じる程よい温かさは俺に何故か子供、ううん、もっと小さい頃を
思い出させた。
俺の手を優しく握る有吉さんの手の温もりも俺を懐かしい気持ちにさせた。

「夜の海のデートなんてシャレてるだろ?」

悪戯な笑顔で有吉さんが俺を見下ろす。

「なんて、カッコつけてもこんな姿じゃ様にならないか…」

“こんな姿”という有吉さんの言葉に改めて有吉さんの姿を見る。
スラックスの裾を膝まで折り、ビーチサンダルを履いた格好はスーツが高そうなだけに
アンバランスで、有吉さんのその姿に俺は軽く笑った。

「やっと、笑ってくれた」

軽く笑った俺に有吉さんが優しく微笑んでくれる。
その有吉さんの笑顔と優しい波の音が俺を素直にした。

「…すみません…俺…」


どうして、有吉さんはこんなに優しいんだろう。

有吉さんの優しさに俺はいたたまれなくなった。

「うん?なんで、謝るのかな?俺は巧己君とデート出来て嬉しいんだけど?」

有吉さんはどこまでも大人だった。

「あぁ、でも、一つ我が侭を言わせて貰うと、もっと、巧己君の笑顔が見れたら
 嬉しいかな…?」

俺の顔を覗き込み有吉さんが笑う。

こんなに優しくして貰う資格なんて俺には無いのに…

俺は有吉さんを失恋の寂しさから逃げる為に利用しようとしているのに。


「……俺…ごめんなさい…」


俺は無理に笑うことすら出来なくなった。

有吉さんの目を真っ直ぐ見れなくて…


「………俺、昨日、振られたんです…」

俺は自分の足元に視線を移して、有吉さんに電話をした理由を告白した。

「そう…」

有吉さんの声は穏やかだった。

「他に好きな人が出来たって言われて…あっさり振られちゃって…
 情けないですよね…」

軽い口調に聞こえるように俺は必死になった。
そんな俺に有吉さんは繋いでいた俺の手を離すと俺の頭をクシャと撫でてくれた。

「辛いのに良く頑張ったね」

「…え…?」

有吉さんの言葉に驚いて有吉さんを見上げる。
今まで誰かにこんな風に子供扱いをされたことはなかった。

頭を撫でられたことは…

しかし、それは決して嫌なことではなくて。
むしろ、俺の頭を撫でる有吉さんの大きな手の優しさに俺は自分の体から力が抜けて
いくのを感じた。

「俺…俺……っ…」

自然と涙が溢れた。

誠一の前でも泣いたことなんてなかった。
誰の前でも泣いたことなんてなかった。

他人の前で泣いたのはそれが初めてだった。

人の前で泣くなんてみっともないことだと思っていた。
いつも、強い自分でいたいと思っていた。
だから、誠一に別れ話をされた時も溢れそうな感情を抑え、物分かりのいい自分を演じた。



『仕方ないね』


仕方なくなんてなかった。
本当は泣いて喚いて俺を裏切った誠一を責めたかった。


「巧己君は不器用だな」

有吉さんは苦笑しながら俺の涙を自分の手で拭ってくれた。

「本当は相手の男の前で泣きたかったんだろう?」

有吉さんの言う通りだ。
俺は誠一の前で泣きたかった。
でも、俺のプライドが邪魔をした。
コンプレックスだらけのくせに変なところのプライドは高いアンバランスな自分を俺は
持て余していた。

「自分で自分を苛めちゃ駄目だよ。自分を大切にしてあげられるのは自分だけ
 なんだから」

何度も頭を撫でる大きな手と優しい言葉に俺は有吉さんに抱き付いて嗚咽に近い声を上げ、
泣いた。





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