… a refuge … 2






僕の目の前に立った男は痛いくらいの力で僕の腕を掴むとまるで物でも投げるように
側にあったベッドに僕を倒した。
急な出来事に僕は声を出すことも出来なかった。

男の体重と自分の体重のせいで僕の身体はベッドに深く沈み込んだ。


『これは脅しだ。お前が俺のモノにならないとあの女とあの女の家族は
 死ぬ。だから、お前は無理矢理、俺のモノになる。そうだろう?芳久』


脅し?

無理矢理?

そんな言葉で僕を追い詰めている男の声と目はひどく優しかった。
それは狂気しか写してなかった男の目に初めて見た優しさだった。


“亡くなった姐さんに似ている”


ずっと気付きたくなかった。

ずっと気付かない振りをしていた。


“姐さんに似ている”


動揺の理由を。

気付いてはもう、戻れない。


“姐さんに似ている”


気付いてはいけない。

気付くな。


狂気を孕んだ男の目は更に僕を見つめ僕の中にいるもう一人の僕を見つめていた。


『芳久、なんで、あんな詰まらない昔話に反応した?うん?俺が死んだ女に
 何時までもしがみ付いてるような男に見えるか?』


男はシニカルな笑みを浮かべ僕に問う。
僕は男の目から完全に目を外せなくなった。


『言ってみろ。芳久、なんで美也子の話に反応したんだ?』


美也子。

無意識に男が言った名前にリアルさが増した。
確かに彼女は存在し、男と僕の知らない時間を生きていた。


“姐さんに似ている”


彼女に似ているという理由だけだ。

男が僕に執着するのは。

その理由だけで男は自分と同じ男の僕に執着した。
自分と同じ男の僕に執着するほど男は彼女を愛して、彼女の面影を求めている。

死んだ彼女の面影を…

自分が導き出した答えに一番ショックを受けたのは誰でもない僕自身だった。


『…僕は…僕は美也子さんじゃない…』


口にした名前は更に自分を追い詰めただけだった。


『当たり前だ。美也子はもう死んでる。とっくの昔にな』


残酷な現実を口にしながらも男のシニカルな笑みが崩れることはなかった。
愛した人の死について話すにはその笑みは不釣り合いだった。


『…どうして…?…』


『一緒になって欲しいと縋り付くから一緒になってやったのに。次は愛して
 欲しいなんてバカなことを望んで。それが叶わないと分かったら自分から
 死んだ。バカな女だ』


男はシニカルな笑みのまま表情一つ変えずにそう言った。

自分を想い死んでいった人をそんな風に言う男が信じられない反面、男のその冷たい言葉に
安心している自分がいた。

人間は残酷だ。
いや、僕は残酷だ。

彼女が男に愛されなかったことを僕は喜んでいた。

ずっと目を背けて、気付かない振りをしていた本当の自分は残酷で残酷な故に純粋で…

なんの飾りも無い剥き出しの欲望に満ちていた。

“愛”なんて綺麗な言葉で表現したところで所詮は“欲望”だ。
相手を自分だけのモノにしたいという、自分だけを見て欲しいという“欲望”


『芳久、どうして美也子の話に反応した?答えろ』


彼女に似ていたことがきっかけでも構わない。
彼女と同じように男に愛されることは無いのかもしれない。
男の只の気まぐれで、暇つぶしに僕は丁度良かったのかもしれない。


でも…

でも…


『…貴方に…貴方に出会わなければ良かった…』


欲望は既に僕の中に渦巻いて。

僕に自分は只の動物だという現実を突き付けていた。

“欲望”という名前の美味しそうな餌を前に飢えた僕は飢えた自分の姿を隠す気もなかった。

僕を見つめる男の目は楽しそうに細められた。


『…貴方に出会わなければ彼女を…彼女を愛していると思えていたのに…』


僕の声はそれでも震えた。
欲望は果てしなく渦巻いて僕を誘惑するのに。
その欲望を掴もうと手を伸ばす寸前で僕は躊躇った。

僕は何を頼りに全てを棄てればいいのだろう。
純粋な欲望を求めながらもズルイ自分はきっかけとなる何かを欲しがった。


『芳久、俺のモノになれ。お前は俺のモノになるんだ』


威圧的な口調と言葉なのに男の目は明らかに僕に甘えていた。

40歳になろうとしている男は時々、子供のように僕に甘える。
その男の無邪気さが僕の欲望を刺激して、男に必要なのは自分ではないかと錯覚させていた。

目の前の餌を掴むにはまだ、足りない。

まだ…



『お前が俺のモノにならないとあの女とあの女の家族が死ぬぞ。いいのか?芳久』


男の目は笑っていた。
どこまでも。


『これは“脅し”だ』


同じことを繰り返す男に僕は気付いた。

“脅し”

“無理矢理”

男は最初から僕に逃げ道を用意していた。


『…梁川さん…?』


男の意図を分かった上での問掛けに男は目を細めた。


『お前はずっと俺に脅されてればいいんだ』


必要としていたモノはとうの昔に男の口から紡ぎ出されていた。
男は始めから僕の為に逃げ道を用意していた。

“脅し”

“無理矢理”

という二つの逃げ道を。

他の人には狂気にしか見えない男の目は今の僕には優し気に映る。
全てを捨てるには男のその言葉で十分だった。


『ずっと脅し続けてやる。だから、お前はそう思っていればいい』


頬を撫でられシニカルな笑みで囁かれる。

僕は残酷だ。

男の用意した僕の為の逃げ道に大切だった彼女のことも男に愛されずに死んだ人のことも
全てがどうでもよくなった。

僕は残酷だ。

自分の欲望の為に僕は僕を信じている全ての人を捨てる。

僕は…


『…僕は……』


溢れ落ちた涙は僕と幸せになれると信じている彼女の為でも愛した男に愛されずに死んだ人の
為でもなく、男に愛されているかもしれないと悟った自分の為だけの涙だった。

男に一番最初に与えられたモノは男に“強迫”されて仕方なく男と一緒にいるという世間に
対しての言い訳だった。

それは全てのことから僕を守る僕だけの隠れ家だった。






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