… a refuge 2 … 7






僕と梁川さんの二人きりのドライブは二十分で終わった。
下町といった風情の場所の二階建ての古いアパートの前で車を停めた梁川さんは

「降りるぞ」

とだけ言い、車を降りた。
そんな梁川さんを追って車を降りた僕を振り返り、自分の側に来たことを確かめてから車を
ロックする。
車のロックを終えた梁川さんは僕を振り返ることなく、目の前にある今にも崩れそうな古い
アパートに向かって歩き出した。

もう住人は誰もいないのだろう。
外観と同じくアパートの室内は荒れていた。
そのアパートの二階、一番端の部屋のドアを梁川さんは勝手に開けると躊躇う僕を玄関において、
一人、土足で部屋に入っていった。
玄関から入ってすぐに四帖の台所と奥に六帖の部屋が一つ。
たったそれだけのアパートの奥の六帖間の窓を開けると梁川さんは窓枠に座り、煙草を銜えた。

「梁川さん、ここは…?」

土足で入るのは躊躇われるけど、靴を脱いで上がれる状態じゃない部屋にどうしていいか分か
らなくて、僕は梁川さんに声をかけた。
そんな僕を見て、梁川さんはシニカルな笑顔を浮かべると煙草に火を点けた。

「ここは俺がガキの時に住んでた部屋だ」

煙草の煙を吐き出しながら梁川さんが言う。
突然、教えられたことに僕はどうしていいか分からなかった。
梁川さんの過去を教えてもらえるのは嬉しい。
嬉しいけど。

「十一まで、ここに住んでたんだ」


十一歳まで…?

その梁川さんの言い方が心に引っ掛かった。

「丁度、ここだ」

黙ったまま玄関に立ち尽している僕をおいて梁川さんは窓のすぐ側の畳を見つめて話し始めた。

「さすがに畳は替えたらしいな」

口に煙草を銜えたままの梁川さんの目に歪な光が宿る。

「あのろくでなしは腹に包丁刺して血だらけになってやがった」

顔は笑ってるのに、声は冷たかった。

「……ろくでなし…」

それが誰のことか聞きたくて問い返す僕を見て、梁川さんが立ち上がる。
フィルターぎりぎりまで灰になった煙草は畳の上に落ち、梁川さんに踏み潰された。

「俺を生んだ女は俺が十の時に逃げた。だからって女を恨んじゃいない。毎日、
 毎日、殴られて。死にたくなかったんだろう。当然のことだ、女にだって
 生きる権利がある」

自分の母親を“女”と言う人を僕は初めて見た。
今まで僕の周りにそんな人はいなかった。

「四六時中、酒の臭いさせて。酒を飲んじゃ女を殴って、暴れて」

畳を見下ろしてる梁川さんの言葉は独り言のようだった。

「下らねぇ。何の役にも立たねぇ。何の生産性もねぇ」

畳の上、何かがあっただろう場所をスラックスのポケットに両手を入れた梁川さんが靴の踵で
踏みにじる。

「芳久、知ってるか?ガキってのは人を殺しても罪にならない」

下げてた顔を上げ、梁川さんが僕を見る。

「大人は馬鹿だ。ガキは無邪気だと思ってやがる。ガキの中には憎悪もなけりゃ
 人を殺る力もないと勝手に思ってやがる」

どこまでも楽しそうな声に笑顔。

「だから、殺った。ヤツが酔っぱらって寝たのを確かめて、ヤツの腹に突き刺して
 やった」

純粋だからこそ、芽生えた感情は真っ直ぐに育つ。
梁川さんの純粋さを養分に憎悪は育った。
実の父親を殺すまでに。

「あんな、ろくでなしだから、血なんて流れてないと思ってたのになぁ、ちゃんと
 真っ赤な血が流れ出てた」

その時のことを思い出したのか梁川さんの目が一瞬だけ遠くを見るように細められる。
だけど、それは本当に一瞬だけだった。

「殺らなきゃ俺が殺られてた、なんて言い訳をするつもりはない。殺りたかったから
 殺った。それだけだ」

後悔はしていない、そんな口調だった。

「どうした、芳久?俺がどんな男かは分かってただろ?殺りたくて殺った。殺って
 なかったら後悔してた」

ポケットに手を入れたまま、梁川さんが半身だけを振り返らせ、僕を見て笑う。
その笑顔に“後悔”というモノは一切なかった。

「ヤクザになったことも後悔なんかしちゃいない。俺にはろくでなしのヤツの血が
 半分流れてる。あれだけ憎んだ血なのにこの世界で生きてくには役に立つらしい」

ポケットの中の両手を出し、皮肉げに笑って畳の上にどかっと座る。
僕の方に向いてあぐらをかいた梁川さんは又、煙草を口に銜えた。


“人の命の重さは同じなんですよ”

“人を傷付けてはいけません”

全てが白々しい。

学校という限られた狭い世界でさえ、そんなことは存在しないのに。

誰が梁川さんのやったことを責められる?
命の重さなんて同じじゃない。
それに自分の命が脅かされても相手を傷付けないなんてことが人間に出来るかなんて誰にも
分からない。

人間は身勝手な生きモノだ。
目の前の暴力には反応するのに、自分から遠く離れた所で起こる殺戮には無関心だ。
現に今、僕がこうしている時にも世界の何処かでは誰かが殺されているかもしれない。
だけど、身勝手な僕にはそんなことよりも目の前の梁川さんが生きてるという事実の方が大切だ。

そう、梁川さんが僕の側にいてくれる。

それだけが大切で、その他のことはどうでもいい。
偽善も欺瞞もない、丸裸の僕が求めてるのは梁川さんと生きてるという現実だけだった。






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