… a refuge 2 … 8






梁川さんが吐き出した煙草の煙が浮かんではすぐに消える、そんな部屋の中で僕は梁川さんを
見つめていた。

暖かい日差しが埃まみれの畳の上に降り注ぎ、遠くからは消防車のサイレンの音が聞こえる。
ひどく悲しい話を背負っている部屋は呆れるほど穏やかだった。

そう、この世界に僕と梁川さんしか存在しないような錯覚を僕に与えるほど穏やかだった。


「この世界に足を突っ込んでからは上に這い上がることばかり考えてた。イイ車乗って、
 イイもん食って、イイ女抱いて…」

まるで昔の自分を懐かしむように梁川さんが皮肉げな微笑みを口元に浮かべ、目を細める。

「理屈じゃない。血が騒ぐんだ。どうせ、人間なんていつか死ぬんだ。それが早いか、
 遅いかだけだろ?だから、何でもやった。這い上がる為なら、てめぇの命なんて
 惜しくなかった…」

細められてた目に訝しげな光が浮かぶ。

「いつ死んでも良かった。お前と会うまでは」

訝しげな目が今度は不思議そうな目に変わる。
とうに吸い殻になっていた煙草を梁川さんはそれでも指に挟んだままだった。

「なぁ、芳久、幸せってなんだ?」

小さな子供が純粋に分からないことを聞く。
そんな口調だった。

「梁川さん…」

「自分からすすんで死ぬつもりはないが、いつ、死んでもいい。人間なんて、いつ、
 どうなるか分からない。変わらないモンなんか何もない」

そう、この世に変わらない物なんか何もない。
時代も言葉も人の心も留まってなんていない。

「だから、変わることは怖くなかった。満足することなんかなかったんだ。でも、今は
 この今を変えたくない。今を変えたくないってことは俺は今に満足してるってことか?」

自分の感情を僕に尋ねる梁川さんが切なかった。
切なくて、切なくて…

僕は土足のまま、梁川さんのもとに歩み寄り、跪いた。

「今を変えたくなくて、お前と一緒にいる今に満足してるってことは俺は幸せなのか?
 なぁ、芳久?」

僕の育った家庭はどこにでもある普通の家庭だった。
サラリーマンの父と専業主婦の母。
そして、二歳上の姉。
どこにでもある普通の家庭で、僕は家族と喧嘩をしたり、笑い合ったりして大きくなった。
幸せがどんなことかを考えることもないくらい僕は穏やかに幸せに育った。

人間は学習する生き物だ。
人が“幸せ”だと感じるのは、その人が“幸せ”を知っているからだ。
だから、“幸せ”を知らない梁川さんには“幸せ”が何か分からない。
自分が“幸せ”なのか分からない。
無邪気に僕に自分が幸せかと問う梁川さんが切なかった。
切なくて、苦しくて。
僕は梁川さんを抱き締めていた。

「…僕は…僕は幸せです。梁川さんと一緒にいれて…」


“梁川さんのものになれて”

梁川さんが分からなくても僕が分かる。
そんな思いを込めて梁川さんを抱き締める。

“可哀想”という言葉は好きじゃない。
何故なら、相手に同情出来るのは相手よりも自分が優位にいると思っているからだ。
だから、“可哀想”なんて言葉で梁川さんのことを終りにしたくない。
切なさや苦しさ、もどかしやさ、悔しさ、そんな、いろんな感情に涙が次から次へと溢れて。
泣きながら梁川さんを抱き締める僕の背中を梁川さんが宥めるように撫でてくれる。

「お前はよく泣く」

呆れたように言いながらも梁川さんの無骨な手はぎごちなく僕の背中を撫で続ける。
そのぎごちなさに僕は余計、涙を止められなくなった。

「ここは一週間後に壊す。だから、お前を連れて来た」

泣き止まない僕を抱き締めたまま梁川さんはそう言った。

「ここが無くなったら、全ては終わる。全てが消える。俺の過去(むかし)を知ってるのは
 お前だけでいい」

「梁川さん…」

いつもと変わらない皮肉げな口調で言う梁川さんからそっと体を離し、梁川さんを見つめる。

梁川さんの脅迫は僕を世間の目から隠す為の隠れ家だった。
梁川さんの脅迫があるからこそ、僕は梁川さんの側にいられる。
だから、今度は僕が梁川さんの“隠れ家”になる。

「…梁川さん、帰りましょう」

そう、ここは梁川さんの帰る場所じゃない。
ここは梁川さんのいる場所じゃない。

「僕達のマンションに…」

二人の隠れ家に。
二人で。

「帰りましょう…」

どんなことがあっても梁川さんから離れない。
何故なら、僕は梁川さんの、梁川さんだけの“隠れ家”だから。
いろんなことから梁川さんを守る“隠れ家”だから。
はっきりとした口調で言った僕に梁川さんは苦笑を洩らし

『そうだな』

と答え、立ち上がり、僕に手を差し出す。
その差し出された手をしっかり握り締め、僕も立ち上がる。

「下らないことでもう泣くな。泣くのは俺の下にいる時だけにしろ」

立ち上がった僕の手が離されることはない。
これからもずっと離されることはない。
だから、僕は梁川さんを見つめ、頷く。

『はい』

と答えながら。

きっと、こんな僕を世間はヤクザに囲われてる最低の人間と罵るだろう。
だけど、身勝手な僕はそんなことには興味がない。
そう、そんなことはどうでもいい。
どこか遠くで誰が死のうとも。
今の僕にはどうでもいい。
この関係を誰かに認めてもらおうとも思わない。
ただ、ただ、梁川さんを愛してる。
だから、梁川さんより先には死ねない。
梁川さんを残しては死ねない。
一日でも一分でも一秒でもいい梁川さんの後に。
それが梁川さんを愛してるということだから。


「帰るぞ」

僕を振り向いて言った後、梁川さんが歩き出す。
その梁川さんに追いつき、横に並び、車まで歩く。
それは短い距離だったけど、僕には未来(さき)に続く道に思えた。






■おわり■