… a refuge … 1






もし、あの時、あの場所に行かなければ、こんなことにはなっていなかった。


そんな、今となってはどうしようもないことを思って僕は軽い溜め息をついた。
幾度となく繰り返した“もし”はいつしか僕の癖になっていた。



















深夜のベッドルームで不意に目が覚めた。

僕は自分の隣から聞こえる規則正しい寝息を止めないようにそっとベッドから身体を
起こした。

少しだけテラスに出て夜風に当たろう。
そう、思った。

出来るだけ静かに身体を起こす。
そっと、彼を起こさないように。
細心の注意を払って。


「どうかしたのか?」

しかし、僕のそんな努力はなんの意味もなかった。
さっきまで規則正しい寝息を立てていた彼は既に目を覚ましていた。

「…ごめんなさい、目が覚めてしまって」

ゆっくりと起こしかけた身体を彼に向ける。

「どうやら、疲れ足りなかったみたいだな」

しかし、彼に向けかけた身体はずっと僕の腰に絡み付いていた彼の腕によって勢い良く
彼に引き寄せられた。

起こしかけた僕の身体は僕の意思に反して再び、ベッドに沈み込む。
見上げた先には口の端だけを上げた彼特有の自信に溢れた笑顔があった。

心地良いシーツもベッドも今は身に付けていないパジャマすらも全ては彼が用意した物で、
彼が用意した僕の為だけの心地良さに僕は捕われ、もう、逃げられなくなって1年半が
経とうとしていた。

“もし”あの時、彼に出会わなければ…

今の僕にとってそれは恐怖でしかない。

彼を失う。

今の僕にはそれが1番の恐怖で、それは死よりも恐ろしい。

このマンションもベッドも僕の為に彼が用意した物、全てが人を傷付けて人の人生を
食い物にしたお金で用意された物だということが分かっていても僕は彼から離れることが
出来ない。

そう、全ての人間に軽蔑されようとも僕はもう、彼から離れられない。

永遠に…























「…んっ…」

甘噛みされた耳朶から快感が広がっていく。

彼の指は既に僕の彼を受け入れる場所の中で自分を受け入れさせる為の準備を始めていた。
僕にとって彼の指は既に快感をよぶ物以外の何ものでもない。

彼に抱かれるようになって1年半。
僕は彼に貫かれ、我を忘れ、浅ましく自ら腰を振り、快感を、快感だけを追うことを覚えた。

彼と出会うまでは女性としか経験がなかった僕にとって彼から与えられる快感は今までの
僕の経験を無意味なものに変えた。

彼とのセックスに僕は溺れきっていた。


「…あっ…!」

何時間前まで彼を受け入れていた場所は簡単に彼を飲み込んだ。

「愛想がいいのは俺だけにしてくれよ」

自分を簡単に受け入れた僕の身体をからかうように揶揄の言葉を呟きながら彼が腰を
使い出す。

「…っ!…ぁっ…!」

その彼の皮肉を非難することも出来ないくらい僕は彼に溺れていく。

「芳久(よしひさ)。俺の名前を呼べ。俺の名前を呼んだらもっと、気持ち良く
 してやる」


セックスの最中に男は僕に自分の名前を呼ばせたがる。
それは男の癖で自分の名前を僕に呼ばせることによって僕に自分が抱かれているのは誰か、
誰が一番欲しいものを与えてくれるのかを認識させる為だ。

「ほら、呼べ。呼ばないと抜くぞ」

横に向けていた顔を手で掴まれ、正面に向けられる。
その手の力に痛みが走って僕は閉じていた目を開けた。

「俺の言ってること、分かるよな?なぁ、芳久」

声は笑っているのに男の目は笑ってはいなかった。

男の目は何時だって狂気を孕んでいる。
でも、その狂気に僕は魅入られ捕われていた。
























『お前の大切なあの女を殺そうか?』


1年半前、ホテルの部屋で男は皮張りの椅子に座り、長い足を組んだ姿勢で笑いながら
そう言った。

それはまるで目障りなハエでも駆除するような軽い口調だった。


『女独りじゃ、いくらなんでも可哀想か。なら、あっちでも寂しくないように
 女の家族ごと殺そうか?』


何処までも男の声と顔は笑っていた。

なのに…

やはり、目は、目だけは狂気の光を浮かべていた。


『…どうして…どうして、そんなこと…』


『言っただろう?お前に選択肢はないと。お前は俺のモノになるんだ。お前に
 迷惑だ、なんて言う資格はないんだ』


男が椅子から立ち上がり僕に歩み寄る。
僕はそれを只、見ていた。

“迷惑”

それは動揺して吐き捨てた僕の言葉だった。





























『梁川(やながわ)さんが貴方に拘るのは貴方が亡くなった姐さんに似ている
 からです。梁川さんだって馬鹿じゃない。今は姐さんの面影を貴方に見ているが
 何時かは気付く筈です。貴方が姐さんじゃないことを。男が愛人だなんて他の
 組のいい笑い者だ。組の面目を保つ為にも貴方自身の為にも身を引いて下さい』


ずっと、迷惑だと思っていた。

ずっと…

なのに。

男の部下に告げられた事実に僕は動揺した。

男が僕に拘った理由。


“貴方は亡くなった姐さんに似ている”

“姐さんに似ている”

“姐さんに…”


その部分だけが僕の頭を支配した。

僕は何をこんなに動揺しているのだろう。
ずっと、迷惑だと思っていたじゃないか。

半年後には去年婚約した彼女との結婚式がある。
彼女と結婚して子供を作って、小さくてもいいから庭付きの一戸建の家を買って…

僕は普通の幸せを手に入れる。

そう、普通の。


『…僕は……僕は…迷惑なだけですから…』


そう、僕は迷惑だと思っているんだ。

ようやく返した返事を僕は頭の中で繰り返して自分を納得させた。














僕が男の部下に返事をしてからものの2時間もしない内に男は僕の目の前に現れた。
目はいつものように笑っていなかったが男の顔も笑ってはいなかった。
少しの抵抗も許されないまま、男の乗る車に押し込まれ、辿り着いたのはシティホテルの
1室だった。






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