… rain … 9






それは閉店時間が過ぎ、梶の旅の話が、一段落しかけた時だった。

「あ、そうそう!マスター、インドで死にかけたんですよね?」

小池君は今、思い出したといった感じで声をあげた。

「あぁ…うん、まぁ…」

突然の小池君の言葉に梶はバツが悪そうに笑う。

「え?本当ですか?あの、その話聞いていいですか?」

そんな梶に浜田君は少し遠慮がちに問う。

「コイツ、バカなんだよ、なぁ?」

浜田君への返事に困っている梶に気付いたんだろう。
比企さんは場の空気が悪くならないようにと軽い口調で話にくそうにしている梶の代わりに
インドの経緯を話し出した。

それは梶の2度目の旅行の時だった。
宿に泊まれないバックパッカーや地元の人達が眠ることで有名な駅で梶は眠っていた。
そして、眠り始めて暫く経った頃、間近に感じる人の気配と自分のリュックを引っ張る感覚に
目を開けると目の前にはナタを持った人間がいたという話だった。

「えー!うわー、こえー、で、どうなったんですか?」

小池君と浜田君はカウンターに軽く身を乗り出し、梶に話の続きを求めている。

「隣で寝てたアメリカ人のバックパッカーが気付いてくれて、一緒に
 追払ってくれたんだよ。それで、命も荷物も助かったんだ」

「ナタって…でも、気付いて貰えて良かったっすよね」

結末が話されたことで一気に場の緊張が緩む。
小池君と浜田君はそれぞれ安堵の息を洩らした。

「まぁ、そういうこともない訳じゃないから…」

梶にとってはバツの悪い話だったんだろう。
苦笑しながら浜田君に忠告する。
だけど、梶にとってバツの悪い旅先での出来事は俺にとっては息苦しくなるほどの恐怖だった。

生々しかった。
ついこの間、事故があったからかもしれない。
梶が旅先で死んでいたかもしれないということに背筋が冷たくなった。
微かに震え出した右手を左手で握る。

「星野さん、なんか顔色悪いですけど、大丈夫ですか?」

「あ…うん…大丈夫」

そんな俺の様子に気付いた小池君の心配げな問い掛けに笑い返す。
だけど上手く笑えているのかは分からなかった。

「やっぱり、そういう時って彼女のこととか考えました…?」

ナタ話が一段落し、閉店時間も過ぎたため梶達が飲み出した時、さっきまでとは違い浜田君は
少し真面目な声を出した。

「実は、彼女に反対されてるんですよ。危ないって」

浜田君は恥ずかしそうに話す。
その浜田君の様子に梶は柔らかい笑顔を浮かべた。

「考えたよ。ここで死ぬ訳にはいかないって思った。絶対、どんなことをしても日本に
 帰るんだって、もう1度、会うんだって」

深くて穏やかな声だった。
梶が旅に出た時、俺達は既に終わっていた。
俺の詰まらないプライドで。
だから、俺じゃない人に対してのことかもしれないのに。
梶の言葉に、それでも何故か胸が苦しくなった。

「なに、カッコつけてんだか。その駅事件の前にコイツと知り合ったんだけど、
 コイツ、かなりヤバかったんだよ、あの当時。日本で大失恋したらしくて、
 日本には帰りたくないって。もう、どこかで姿消すんじゃないかって、俺は
 気が気じゃなかったんだから」

「やめて下さいよ。そんなガキの時の話」

比企さんの言葉を梶は焦りながら慌てて止めている。

「何がガキの時の話だよ。実際、お前が、ずっと旅してたのだって、日本から
 逃げてたんだろうが」

「まぁ…それは、なんて言うか…」

だけど年齢の差からか又は、店の出資者だからか、梶は比企さんに頭が上がらないようで
反論の言葉は途中で消えた。

「あの時のコイツ見せてやりたかったなぁ。もう笑うくらいヘコんでてさぁ。その失恋相手、
 高校の同級生だったらしいんだけど、かなり本気だったみたいでさぁ…」

「比企さん、本気でもう止めて下さい」

怒ってはいないものの弱り果てたように梶に比企さんも、もう引き時だと思ったんだろう。

「分かった、分かった。悪かったよ。まぁ、コイツも今はこんな大人ですって顔してるけど、
 ガキの時があったってことだよ」

笑って話を区切る。

「なんか、今日はマスターの色んな話聞けて得した感じだなぁ」

「マスターって結構、一途なんですね」

梶の旅の話と昔話を聞けた満足感からか小池君と浜田君は又、比企さんを中心に各々、他愛の
ない会話を楽しみだす。
だけど、そんな4人を眺めながら俺の頭の中には、さっきの比企さんの言葉が蘇っていた。


“高校の同級生だった”

俺が傷ついていたように梶もあの別れに傷ついていた…?
俺が梶を忘れようと自分に言い聞かせていた時、梶も知らない国の知らない街で、俺とのことを
考えていた?

まさか…

突然、知らされたことが信じられなくて、俺は小池君達と話している梶を見詰めた。






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