… rain … 10






三時を少し過ぎた時だった。
店の片付けを粗方終えた俺は梶の横で、小池君達の会話を聞いていた。
梶の旅の話は既に終わり、比企さんを中心に話の内容はスポーツやなんてことはない雑談に
なっていた。
そんな雑談の中、さりげなく梶がこっちを向き、目で俺にスタッフルームに行くよう合図し、
先にスタッフルームに歩いて行く。
その合図に俺は梶の背中を追いかけスタッフルームに向かった。

「悪い、三時過ぎたな」

「いいよ、別に」

二人だけのスタッフルームで梶は申し訳なさそうに言う。

「あの調子だと、まだまだ遅くなりそうだから。もう上がってくれていいよ」

「…あぁ」

時間も時間だから、もうお客さんは来ないだろう。
それに店の片付けも殆ど終わっている。
だから、俺がここに残っていてもすることはない。
そんな状態で、もう帰っていいと言う梶に帰りたくないとは言えず、俺は

「…じゃあ、上がらせてもらうよ」

と言った後、俺に割り当てられたロッカーの扉を開けた。

店内から調理場を通り抜けた所にあるスタッフルームの広さは四畳半程だ。
ロッカーが三つと小さなソファーとテーブルがある。
初めて梶の店に来た時に酔い潰れた俺が寝かされていたのもここのソファーだった。

無茶をして意識を失い、目が覚めた時、俺を支えてくれたのは梶だった。
背中に感じた梶の温もり。
今でも鮮明に思い出せる温もり。
そんな記憶のある空間で帰り支度をする俺の背後では梶がタバコを吸い始めた。

どうして、店内に戻らないのか。
そんな単純な疑問を思い浮かべることも出来ないくらい背中に感じる梶の気配に俺は動揺した。

密室で二人きりだということに否が応でも緊張する。
その緊張の中、身支度が終わった俺は梶に気付かれないように小さな息を洩らした。

「…あの、さっきの比企さんの話だけど…」

ロッカーの扉を閉め、振り向いた俺に吸っていたタバコを灰皿に押し付け消した梶が、
気まずそうに口を開く。
この時になって俺は初めて、梶が店内に戻らなかったことを不思議に思うと同時に、
この話をするために店内に戻らなかったのだと気付いた。

「…あぁ」

さっきの比企さんの話。
それはきっと同級生に失恋をしたという話だろう。

「なんていうか…その…昔のことだから、お前は気にしなくていいから…」

梶は頭を掻きながら苦笑している。


“昔のことだから気にするな”


終わったことだという意味しかない梶のセリフに俺はすぐに返事が出来なかった。

何を期待した?
梶に…
もう、あの頃の俺達じゃないのに

「…あぁ…分かってるよ…もう、終わったことだから。気にしてないよ…」

あの日、病院に向かいながら俺は思った。
無事でいてくれと。
まだ、何も伝えてないから無事でいてくれと。

だけど…

梶の怪我の原因を作った俺が、あの別れを昔のことだと言う梶に何を伝えるんだ?
伝えて、そして、どうするつもりなんだ?

梶がもう昔のことだと割り切っているなら。
俺の勝手な想いに梶を付き合わせるわけにはいかない。

「…そうだな…もう終わったことだったな」

俺の言葉を噛み締めるように繰り返した梶は困ったような笑顔を浮かべる。
その梶の顔は昔、俺に自分のことを好きだと言えと言ってきた時の顔と似ていて。
俺は慌てて、梶から視線を背けた。

今、梶の顔を見てしまったら全てをぶちまけてしまいそうだった。
まだ、忘れてないと。
いや、忘れるどころか、今でも好きだと。

俺が黙り込んだことで二人きりのスタッフルームには気まずい沈黙が流れた。

「…腕、あとどれくらいかかりそうなんだ」

時間にすれば一分もなかっただろう。
だけど、二人きりでの沈黙は辛くて。
耐えきれず、先に口を開いたのは俺の方だった。

「あ…あぁ、あと、ひと月くらいかな?」

あと、ひと月。

「…そうか」

あと、ひと月で、梶の腕のギプスが取れる。

“お前の腕が治るまで俺に店、手伝わせてくれないか”

それは店を手伝いたいと言った時に俺が言った言葉だった。

あと、ひと月…

あと、ひと月で、梶との約束は終わる。

「この、ひと月、本当に助かったよ。て、まだ、ひと月あるか。それに明日もだしな」

「…あぁ」

梶の店の定休日は水曜日だ。
だから、この、ひと月間、日曜日は夕方6時に店に入り、開店準備を手伝うことが俺の
仕事になっていた。

「ひと月か…昔は長かったのにな、今じゃ、ひと月なんて、あっという間だな…」

「…そうだな」

昔を懐かしむような静かな梶の声に俺は静かに笑った。

社会に出て働きだしてから、月日は目まぐるしく過ぎていった。
学生の頃は、もっと時間がゆっくり過ぎていたような気がするのは、俺が学生じゃないからだろうか。
きっと、残された、ひと月もあっという間に過ぎて行くんだろう。

「帰り際に引き留めて悪かった。送っていけなくて、悪いけど、気を付けて帰れよ」

「…あぁ、お疲れ様」

「お疲れ」

一日の労いの言葉を掛けてくれる梶の顔をやっとの思いで見上げる。
俺の目線より九センチ高いところにある目は、優しい色を浮かべて俺を見下ろしていた。






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