… rain … 8






それはアフリカの民族音楽だったり、アルゼンチンの音楽だったり。
お客さん同士の会話の邪魔にならない程度に流れる音楽は、その日の梶の気分で流される。
開店は夜7時、閉店は深夜2時となっていたが最後のお客さんが帰るまでは閉めないため
閉店時間はあってないようなものだ。
カクテル類を作れるのは梶だけだから、もっぱら梶はカウンター内でアルコールなどの
用意をし、オーダーを聞いたり運んだりするのは巧巳君が担当している。
アルコール以外に簡単な料理も出すため梶は調理師免許も持っていると巧巳君から俺は
聞いた。
梶の腕が完全に治るまでの間、梶の代わりに梶と旅先で知り合った比企(ひき)さんという人が
今は梶と一緒にカウンター内に入ってくれている。
俺と梶より8歳年上の比企さんは、バーやレストランを何軒か経営しているらしく梶の
出資者でもあるらしかった。
あの日、病室で接客業を経験したこともないのに店を手伝うと言って譲らなかった俺に
梶は結局、折れた。
週末と平日の俺の仕事が早く終わった時だけ。
それが折れた梶が出した条件で、その条件で俺は今、梶の店を手伝っている。
店が開いてしばらくは若い年代のお客さんで賑わい、夜11時を過ぎると店の空気は
穏やかに変わる。
店といっても生き物だということを俺は梶の店を手伝うようになって知った。
店を訪れる色んな人達との会話も人付き合いが余り得意じゃない俺には最初、戸惑いが
強かったが少しずつ慣れてくると自分の知らない世界をお客さんを通して知れることで
今では楽しくなった。


『だって、色んな人と話せるのって面白いと思わないか?』


昔、梶に何故、ショットバーをしたいのかと聞いた俺に梶はそう答えた。
自分の知らない人と沢山、出会い、そして、自分の知らない世界を知りたい。
その梶の思い、あの頃、分からなかった梶の思いが今、俺には、朧気に分かるような気がした。














梶の店を手伝い始めてひと月、いつもと変わらない土曜日だった。
時刻は深夜1時手前、巧巳君は12時に上がっていて、店内は珍しく12過ぎに来た常連の
お客さんで小池君という20代前半のお客さんと小池君の友人らしい青年、そして、梶に
比企さんと俺だけだった。

「今日、コイツ連れて来て良かった」

「うん?今日、どうしたって?」

カウンター内の梶に小池君が話しかける。

「だって、客、俺達だけなんて、滅多にないっしょ?客、多いとマスターと、
 ゆっくり話し出来ないんだよなぁ」

「そこまで俺と話したがってくれてたなんて、有難たいな」

小池君の言葉に梶は微笑み、お礼を言う。

「だって、俺、マスターのファンだし。それにコイツ、浜田っていうんですけど、マスターの
 話したら、すげぇ、マスターに会いたがって、今日、連れて来たんですよ」

「ファンて、コイツ、そんなすげぇヤツじゃないよ」

「比企さん、酷いなぁ」

カウンターの一角では小池君と梶の会話に比企さんも交じり、和やかな雰囲気が流れていた。

「あ、比企さんもファンですよ、俺」

「“も”って、梶なんかより俺の方がいい男なんだけどなぁ」

「いや、2人ともイイ男ですって」

比企さんに慌ててフォローを入れる小池君に笑いが起こる。
その様子を聞きながら俺は小池君達と入れ替わりに帰った団体客のテーブル席を片付けていた。

「いや、話変わるんですけど。マスター、昔、バックパッカーだったんですよね?」

「うん、まぁ、大分、前だけどね」

「実はコイツもバックパックでアジア周りたいらしくて。それで、マスターの
 話したら、マスターから話聞きたいってなって、今日、連れて来たんですよ」

テーブル席からグラスや皿を運び、シンクに入れる。

「うーん、大した話、ないよ?」

梶のバックパッカーの時の話ということに手先よりも耳に神経が集中する。

「あの、何でもいいんです。話聞かせて貰えれば…」

「まぁ、他に客もいないことだし、話してやれば?」

比企さんはタバコに火を点け、休憩モードに入っている。

「色々、自分で調べはしたんですけど、やっぱり、実際に旅行した人の話聞きたくて」

小池君が浜田と紹介した青年はカウンターに身を乗り出し梶を尊敬の籠もった眼差しで
見ている。
その自分の知らない世界を夢見ている楽しそうで希望に溢れた目は12年前、俺が見た梶の
目と同じだった。

「まぁ、参考になるかどうか分からないけど、俺の話で役に立つなら」

浜田君の押しに負けたのか梶は困ったように笑う。

「やっぱり、最初はインドがいいですか?」

そして、そんな梶達の横でシンクの中のモノを洗い出した俺の耳には梶の了解を得た浜田君の
最初の質問が聞こえてきた。









店内に流れる穏やかなのに、どこか物悲しい行ったこともない国の音楽をバックに梶は
浜田君の質問に昔を懐かしむような声で旅の話をする。
梶が手に入れた梶の店で語られる俺の知らない梶の旅の話は、まるで小説を読んでいるかの
ようで俺は洗い終わったグラスを拭くことも忘れ、浜田君達と一緒になって梶の話に
聞き入っていた。

各国のバックパッカー達との交流や駅で眠ったこと。
回った国で見た朝焼けや夕焼け。
地元の人達の笑顔とエネルギー。
訪れた各国ごとの匂いに喧騒。
パスポートを盗られかけたことや、地元のマフィアとの追いかけっこ。
どこの国のどこは比較的治安がいいなど。
梶が旅先で感じたことや経験したことから地理の話まで。
請われるままに話す梶の話は俺の知らないことばかりなのに。
穏やかに懐かしそうに話す梶に俺はまるで梶と一緒にその世界を旅したような気持ちを
味わっていた。

あの頃は俺をおいて旅に出ると言った梶が許せなかった。
いや。
男なら誰だって憧れることをいとも簡単に何の戸惑いも迷いもなく行動に移す梶が
羨ましくて妬ましかった。
なのに12年経った今、心は穏やかだった。
沢山の人と出会い、沢山の経験をした梶を心から良かったと思える。

そう

俺は今、俺とは違い過去を後悔せず過去を糧に出来ている梶を同じ男として尊敬していた。






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