… rain … 5






意識を失っていたらしい俺が目を覚まして最初に感じたのは額にあるひんやりとした感触だった。

自分がどこにいるのかも分からないまま、体を起こそうとした俺は横から伸びてきた手で、そっと、
支えられた。

「大丈夫か?」

俺を気遣う声と額から落ちかけた冷たい濡れたタオルを掴む大きな筋ばった手。
そして、少し戸惑うように俺の体を包む広い胸。
俺を支えているのが誰かはすぐに分かった。
だからこそ、俺はすぐに顔を上げられなかった。
微かな柑橘類の香りに心が落ち着いていく。
俺をぎこちなく抱き止める昔とは少し違う広い胸に微かな希望を感じた。

もしかしたら。

今なら…


「……梶」

「ん?どうした?」


“あの時はごめん”

“本当は梶のこと待ってるって言いたかった”


そう、言いたくて。

昔、言えずにいた自分の気持ちを伝えたくて。

精一杯の勇気を振り絞って顔を上げかけた俺は、梶の開いたシャツの胸元からのぞくネックレスを
見付けた。

そして、唇を閉じた。

細いチェーンに通された物、それはシンプルなプラチナの指輪だった。
ネックレスのチェーンに通された指輪。
それは、マリッジリングに似ていて。
その小さなリングは俺と梶の間に大きな、決して越えることの出来ない壁を作った。

「どうした?」

どうして、梶が独りだと思ったんだろう。
それは希望だ、願いだ。
俺の、俺だけの。
勝手な。

「どうした?」

昔か、今かは分からない。
だけど、俺と離れてから俺以外の誰かとの時間が確かに梶には存在した。
そして、梶はその時間を忘れていない。
その現実は俺を打ちのめした。
自分だって、梶と離れてから梶とは違う人間と時間を過ごしたのに。
そんなことすらも俺の頭からは消えていた。

「真幸…?」

俺の名前を呼ぶ梶の声が梶の声ではないような気がした。

「あ…ごめん…俺、迷惑かけたな」

俺の体を抱き止めるこの胸は誰かのものだったかもしれない。
いや、もしかしたら、誰かのものかもしれない。

「迷惑なんて、随分、他人行儀だな」


他人行儀…

些細な一言が魚の骨が喉にひっかかったみたいにひっかかった。

どうせ他人じゃないか。
あの時も今も。
だから、他人だから、お前は俺に相談もしないで決めたんだろ?
俺を置いて行ったんだろ?
一人で。


「……他人だろ…俺達」

自分でも驚くくらい俺は冷たい声を出していた。

「それはそうだけど…俺は迷惑だなんて思ってないぞ」

残酷過ぎて、息が出来ない。
普通なら、只の友人だったなら、優しいと感じる筈の言葉は俺が梶に想いを残しているからこそ、
俺には残酷だった。

「…帰るよ」

早く、この場から逃げたかった。

「送って行くよ」

「一人で大丈夫だから」

梶の側から逃げたかった。

「お前は大丈夫でも俺が気になるんだ」

梶の優しさが俺には辛かった。

「一人で帰れるって言ってるだろ!」

振り払われた腕をどうしていいか分からない。
そんな感じで梶は動きを止めた。

愚かな俺は何も学ばない。

過去の過ちから、何も。
同じことを繰り返し、そんな自分に途方にくれる。

謝ることも立ち上がることもしないまま、俺は黙り込んだ。
静かな部屋の中に梶の溜め息が流れた。

「お前が嫌だって言っても送って行くからな」

溜め息の後の言葉に驚いて、俺は梶の顔を見た。
梶は少し怒ったような顔をしていた。



















俺が嫌だと言っても送ると言った梶に俺はそれ以上、何も言えなくて、結局、送ってもらった。

一人きりのマンションに辿り着いて、ベッドに寝転がると雨が降る音が聞えた。
雨の音は段々、激しくなっていく。
明け方の静かな部屋の中を窓硝子に雨が当たる音だけが支配していく。

どうか、どうか神様、ううん、神様じゃなくても、何でも誰でもいいから。
梶が無事に帰れますように。
梶が無事に梶の夢の家に辿り着きますように。

目を閉じたまま、素直な自分に戻って雨の中、車を運転する梶の無事だけを祈る。
何度も梶の無事を口の中だけで祈るうちに俺は夢の中に落ちていった。

雨音が子守り唄のようだった。
雨の匂いとシトシトという音が俺を包んでいた。
雨音をこんなにも優しく感じるのは何故だろう。

夢の中で俺は水の上に体を浮かべ、目を閉じていた。
水に浮かぶ俺の体は段々、俺の周りにある水の中に溶け出し、小さくなっていく。

あ、そうか。
溶け始めた自分の手を閉じていた目を開き、見つめた俺は気付いた。
人間は海から産まれたんだ。
そして、人間の体は水に支配されている。
そう、俺も又、“水”なんだ。
どうして、今までこんな簡単なことに気付かなかったのか。

水なら、海ならいい。
やがて、雨になる。
そうだ、雨になろう。
雨になって梶の上に降ろう。
雨になって、梶の上から降って梶を包もう。
梶を包んで、梶の全てを包んで、あの指輪や、梶の想い出をも包んで…
空に還ろう。

少し眠りが浅くなった俺の頬が“水”で濡れた。
眠りながら俺は泣いていた。
いつまでも独りの部屋で泣き続けた。
声を出さずに泣き続けた。
眠りから覚めるまで。






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