… rain … 4








“返しに来いよ”



梶の店の五メートル手前で俺は深呼吸をしてから傘を握り締めた。

断れないことはなかったのに断らなかったのは断りたくなかったからかもしれない。
だけど、俺はまだ、梶みたいに全てのことを想い出に消化出来てはいなかった。

まだ、まるで何もなかったかのように梶の前で笑う自信はなかった。










雨なんて一粒も降っていない日に傘を手に、立ち尽すサラリーマンは周りに奇異に
映っていたんだろう。
通り過ぎる人達の自分を見る好奇の視線に気付いた俺は傘を店先に置いて、帰ろうと
梶の店に歩き出した。

























「懐かしいな」

「…あぁ」

カウンターの右隣で軽く笑う有吉に俺はぎこちない返事を返した。

















握り締めていた傘をそっと店先に置いた俺は背後に感じた人の気配に振り向いた。


『あれ?もしかして、星野?』


遥か昔に聞き覚えのある声と呼ばれた自分の名前に思わず顔を上げて、そして、俺は
俺の名前を呼んだ相手と目を合わせてしまったことを後悔した。


『…有吉?』


『やっぱり、星野だよな?』


目を合わせた相手は紛れもなく有吉だった。
そして、その時に安岡が言っていたことを思い出した。
梶と有吉が今でも親しくしているということ。


『丁度、良かった。俺も星野と久し振りに会いたいと思ってたんだ。こんな所に
 いないで中に入ろう』


さり気なく背中に添えられた手と優しい口調のわりに口を挟む隙を与えない有吉の様子に
俺は有吉の誘いを断る言い訳をする間もなく、梶の店に足を踏み入れていた。


『店の前で偶然、会ったんだ』


俺と有吉の連れだった姿に笑顔を浮かべた梶に有吉はそう言った。


『…これ、傘ありがとう』


『あぁ』


逃げ場を無くした俺は逃げることを諦め、梶に傘を渡した。


『有吉はいつものだな。で、真幸はナニ飲む?』


俺の渡した傘を店の奥にしまってきた梶はこの前、偶然、会った時と同じような口調で俺に
オーダーを聞いてきた。


『あ…俺はコロナで』


『コロナだな』


昔、梶と一緒に過ごして頃、俺は一度だけ梶のバイト先に梶には内緒で遊びに行ったことが
ある。
そして、その時、梶はアルコールは駄目だと言ってジンジャーエールを出してくれた。
そんな些細な束縛さえ嬉しかった。

しかし、十二年たった今、俺の前にはライムが苦しそうに泳ぐ、コロナが所在なく立っていた。


「高校を卒業してからだから、もう、十一年振りか」

「あぁ…」

ロックグラスを傾けながら有吉は笑った。

有吉とは生徒会でずっと一緒だった。
生徒会長になれるくらい生徒達から信頼と人気があったのに、何故か有吉は自分から副会長を
かって出ていた。
そして、どこでどういう接点で結び着いたのかは分からないが梶と有吉は仲が良かった。
だから、梶を傘に入れた日から俺達は三人でいることが増えた。
そして、俺と梶の付き合いが友人から一歩進んだものに変わった時から、微妙に有吉は俺達と
距離を置いてくれるようになった。
だから、きっと有吉は俺達のことに気付いていた。
その事実が俺を戸惑わせた。

「仕事は?今、何してるんだ?」

「市役所で働いてるんだ」

「星野らしいな」

戸惑う俺を置いて、有吉はにこやかに俺に話しかけてきた。

「結婚は?」

「…まだだよ」

「そうか。俺もまだなんだ。でも、恋人ぐらい、いるんだろ?」

「…いや」

「独りなのか?」

「…あぁ」

久し振りに会った俺に有吉は次々と質問を浴びせてくる。
そんな俺達の遣り取りを梶は仕事をしながら黙って見ていた。

今の職場のことや大学時代のこと、そして、恋愛のことなど。
有吉に聞かれるままに答えながら、俺は飲み続けた。
アルコールの力でも借りないと梶の前で平静な振りすらも難しかった。

どれくらいの時間、どれくらいの量を飲んだかは分からない。
気が付いた時には俺の前には有吉の飲んでいたブラントンのソーダ割りがあった。
アルコールのせいだろう。
体がフワフワと心地良い。

「星野、大丈夫か?」

「…あぁ」

有吉の心配げな様子さえも何故かおかしくて、俺は少し笑った。

一度、笑うと何もかもがおかしく思えてきた。
もう自分のことを何とも思ってもいないだろう梶を目の前に俺は何をしてるのだろう。
一人で緊張して、一人で意識して。
馬鹿みたいだ。
いや、みたいじゃなくて、馬鹿そのものだ。

未だに、まだ、梶を好きだなんて終わってる。
十二年も想いを引きずってるなんて終わってる。
まだ、自分を好きでいて欲しいなんて。

あの時を。
あの時に、もう一度戻りたいなんて。

自分の情けなさがおかしくて、俺はグラスに三分の一ほど残っていたブラントンを飲み干そうと
グラスを掴んだ。
だけど、グラスを持ち上げた手首を梶に掴まれてしまった。

「もう、止めとけ。酒はそんな風に飲むもんじゃない」

梶の目は笑っていなかった。
軽蔑されたような気がした。
酒の飲み方も知らないのかと。

「久し振りに会ったのに、固いこと言うなよ。それに星野はお前の何でもないだろう?」

俺と梶の間に流れる気まずい空気を壊したのは有吉だった。
有吉の言葉に梶は少し怒ったような困ったような複雑な顔をして、俺の手首を離した。

「でも、まぁ、星野も飲み過ぎかな?て、勧めたのは俺か」

俺から目を逸らして梶は仕事を始めた。
カウンターで起こった一瞬の出来事は他の客に気付かれることもなく、終わった。
俺はカウンターで一人、俯いた。

梶に掴まれた手首が熱かった。
ジンジンと。

熱くて、痛くて。

その痛みに泣きそうになった。


「星野…?」

胸が苦しくて立ち上がった俺に有吉が不思議そうに俺を呼ぶ。

「……トイレ行ってくる」

「あぁ」

トイレに行って、酔い醒ましに顔でも洗おうと思った俺はイスから立ち上がり、トイレに
向かって歩き出した。

一歩

二歩

三歩…

しかし、四歩目を踏み出そうとした途端、上下が分からなくなった俺が、四歩目を踏み出すことは
なかった。






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