… rain … 3







楽しかった。

ただ、楽しかった。

梶がいて、俺がいて。
時間が沢山あって。


『真幸』


梶が俺の名前を優しい声で呼んで。
触れ合う手は温かくて。
梶の腕の中は心地良くて。

それだけで良かった。

それだけしかなかった。






























少しだけ。
少しだけだ。

そんな言い訳の言葉を頭の中で繰り返しながら俺は梶の店の近くまで来た。
店が開いていない時間に来たのはただ、梶の店を一目見たかったからだ。
安岡から聞いた住所を頼りに駅から歩く。
梶の店が近付くごとに鼓動は不規則になった。

何を今更。

そんな風に自分を嘲笑っても鼓動は治まらなかった。

安岡が言っていた目印のビルを見付け、そこで足を止める。
不審者以外何者でもない自分の状況を考えることもないまま、俺は梶の店の向かいにある建物の
陰に隠れ、梶の店を見つめた。

店の扉は当たり前だけど、しっかりと閉じられていた。
アジアンテイストの店は決して和風を取り入れてはいないのに何故か懐かしい雰囲気がした。

今はついていないあの店に灯りがともると、きっとその灯りは夜の街に優しく温かい色を
落として店に訪れる人を受け入れるのだろう。
そう思うと今、俺の目の前にあるのはまさしく梶の店だった。
あれは、あの店は梶の“夢”だ。
梶がずっと叶えたいと願っていた夢だ。
不意に俺の頬を温かい何かが伝って落ちた。

もう、いい。
もう十分だ。
恨んでなんていない。
ましてや、怒ってなんて。

ただ、心にあるのは後悔だ。
あの時、何故、梶に待ってると言えなかったのか。
何故、ごめんと言えなかったのか。
そのたった一言を言えたら、例え、恋人という関係ではないにしても俺達は今でも一緒に
いれたかもしれないのに。

だけど、それすらも全ては過ぎたことだ。
そう、全ては終わったことだ。
もう、戻ることは出来ない。

いつまでも女々しい自分を振り切る為に踵を返し、もと来た道を足早に戻る。
梶の店まで行きは三十分もかかったのに。
帰りの駅までの道のりはたったの十五分しかかからなかった。

























どんなに後悔しても、辛くても、時間は止まってはくれない。
日常は梶のことを知る前と変わらず訪れた。
朝、職場に出勤し、日常の業務をこなし、家に帰って、風呂に入って寝る。
そして、又、朝を迎える。
そんないつもと何も変わらない中で俺は職場の近くにある定食屋に入って昼食を済ませ、
職場に戻る為に店を出て歩き出した。
定食屋から職場までは十分もかからない。
しかし、その十分の道のりを歩き出した俺の頭上に空から水の雫が落ちて来た。
そういえば朝から曇っていた。
傘は持って来ていない。
早く職場に戻ろう。
そんな頭に浮かんだことを考えながら早足で職場への道のりを急ぐ。
俺と同じで丁度、昼食を済ませた人達も足早に俺の横を通り過ぎていく。
だが、雨は無情にも勢いを増してきて。
足早というよりも駆け足になりかけた俺は突然、斜め右後ろから現れた手に腕を掴まれ、
足を止めた。

「真幸」

俺の鼓膜を震わす振動は昔に比べると少しだけ低くなっていたけど、それでもそれは何度も
夢の中でまで、俺を捕えて離さなかった声だった。
その懐かしい声が怖くてすぐには顔を声の主に向けられなかった。

「真幸だろ?久し振りだな」

さっきまで、俺を濡らしていた雨はもう俺にはかからない。
だけど、その代わりに雨は今、梶の肩を濡らしていた。




























「偶然だな」

ありったけの勇気を振り絞って、梶の顔を見上げた俺に梶は十二年前と変わらない笑顔で
そう言った。

「…あぁ、久し振り」

みっともなく俺の声は震えた。
どうして、こんな所にいるのかという疑問がすぐに頭に浮かばないくらい俺は動揺した。

「あ、お前、この前、店来てくれなかっただろ?」

少し笑い皺の増えた顔はすっかり大人の男のものだけれど、屈託なく笑う顔は昔の面影を
残していた。

「…あ…ごめん」

店に行かなかったことを軽く詰られ、俺は思わず“ごめん”と口にしていた。

「まぁ、用があったんなら、しょうがないか」

しょうがないと言って笑う梶の屈託のなさにまるで、十二年前に戻ったような気がした。

「朝から曇ってたから降るとは思ってたけどな」

少し困った風に笑う顔も変わらない。

「これ、使えよ」

十二年前に引き戻されたような感覚に呆然とする俺をよそに梶は自分が握っていた傘を俺の
手に握らせた。
触れた梶の手は昔と同じで温かかった。

「もっと、ゆっくり話したいけど、お前、仕事あるだろ」

渡された傘を俺はどうすればいいか分からないまま、ただ握り締めた。

「だから、今度、店来いよ。これ返しに」

これと言ってから梶は俺が握る傘を見た。

「でも、お前は…?」

傘は梶が俺に握らせた一つしかない。
俺がこれを借りると梶には傘がなくなる。

「俺は車だから」

そう思って見上げた俺に梶は道路の向かいに停めてあるサーフを目で指した。

「だから、遠慮すんな。その代わり、絶対、来いよ」

「梶…」

「じゃあ」

「ちょ…っ」


ちょっと待ってくれ。

俺がそう言い終わる前に梶はあっさりと俺の前から走り去った。
突然、現れて、俺に傘を渡して走り去った梶の車に乗り込む姿を俺は傘を握ったまま呆然と
見ていた。

十二年前も突然だった。
それまで、話したこともなかったのに。
梶はいつだって突然だ。
こっちはなんの準備もしていないのに。


『絶対、来いよ』


まるで、何事もなかったかのように。
昨日も一緒にいたかのように。
俺が後悔し続けた十二年間なんて、まるでなかったかのように。

十二年前の俺の酷い言葉も、突然の別れも全てなかったような梶の態度が俺の心に深く
突き刺さって。

俺は梶に渡された傘を握り締めたまま、その場に立ち尽した。






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