… 愚か者 … 1








「よぉ…」

開けたマンションのドアの向こうで羽賀(はが)は力なく笑いながら軽く右手を上げた。

「お前、何時だと思ってんだよ」

「あぁ…ワリィ…」

酒の匂いと香水の匂い。
羽賀がここに来るまで何をしていたかは聞かなくても分かった。

「なんか、急にお前のカオ見たくなって」

「…」

頭を掻きながらバツが悪そうに言う。

羽賀は馬鹿だ。
馬鹿の上に卑怯だ。

「カオ見れたから、もう、いいわ」

でも、羽賀以上に馬鹿なのは俺の方だ。

「寝てるとこ悪かったな…じゃあ」

羽賀はさっきと同じように力なく右手を上げ、寂しく笑い、立ち去ろうとする。

「…せっかく来たんだから、入れよ」

そのぼろぼろの姿に俺はいつものように羽賀を引き止めていた。

「え…?」

「コーヒーくらい入れてやるから」

「…あぁ」

結局、俺はコイツを突き放せない。
そう、コイツの心が別の人のモノでも。

羽賀に大切な人がいたことは気付いていた。
それが、どんな人かは知らないけど。
そして、その人と終わったことも。





「明日、仕事だよな?」

「あぁ」

「マジで、悪い」

「もう、いいよ」

俺のベッドに凭れ、羽賀は、タバコを取り出す。
そして、俺はタバコに火を点けた羽賀の前のテーブルにマグカップに注いだ濃いブラックを
置いた。

高校の時から羽賀は人気があった。
だから、羽賀の周りにはいつも女の子がいた。
二股、三股は当たり前で、それを悪いことだとも思っていない奴だった。

なのに、どうして。

羽賀が酒に酔い、俺のマンションを訪れるようになったのは半年前からだ。
それまでも、俺のマンションを訪れたことはあったが、明らかに今までと半年前からの
羽賀は違っていた。

あの羽賀をここまで傷付けた人。
その人が、どんな人かは知らない。
だけど、見たこともない、その人に俺は嫉妬していた。

遊びなら、ううん、遊びだから。

それが唯一の俺の救いだった。
遊びなら、誰のモノでもない。
誰のモノにもならない。

それが、それだけが、唯一の救いだったのに。

俺の知らない誰かとの別れに傷付き、ぼろぼろに酔い、適当に知り合った人間と寝、
埋まらない虚しさに俺のマンションに来る。
そんな羽賀に俺の救いは消えた。




















「俺、寝るから。お前も適当に寝ろよ」

来客用の布団セットを押入から出し、羽賀の隣に置いてやる。
もう、来客用というより羽賀専用になった布団セットを眺め、力なく笑う羽賀を横目に
それだけを言うと俺はベッドに戻った。

「電気はどうすりゃいい?」

「いつも通り、お前の好きにしろよ」

俺の返事に羽賀は立ち上がり、部屋の灯りを消す。
電気の消えた部屋は窓から漏れ入る街灯の灯りで薄明るい。
その薄明るい部屋の中、嗅ぎ慣れた羽賀のタバコの匂いを感じながら俺は目を閉じた。

何をきっかけに羽賀と親しくなったかは忘れた。
何故、羽賀を好きになったかも。
だけど、高校一年の時に羽賀と親しくなってから十年。
馬鹿みたいに俺は羽賀だけを思い続けていた。

コーヒーを飲む気配と羽賀の溜め息。
そして、羽賀のタバコの匂い。
その羽賀の気配に俺はベッドの上で息を殺す。
羽賀に気付かれないように。
だけど、俺は羽賀の側にいる。
気付かれないように側にいる。
そして、振り向いた時には微笑んでやる。
今の状況は、まるで俺の十年、そのままで。
俺は心の中で自嘲気味に笑った。







「佐野(さの)、もう、寝たか?」

「…いや」

羽賀の気配を感じながら薄く眠りに落ちかけたその時、少し思い詰めた羽賀の声が
俺の耳に届いた。

「…お前さ…」

「ん?」

何か言いたげな問い掛けに先を促す返事を返してやる。

「…いや…いいわ」

だけど、言い掛けた何かを羽賀は止めた。

「何だよ。気になるだろ」

いつもなら、流すはずのことが何故だか今日に限って流せなかった。

「気になって寝れないだろ」

薄明るい部屋の中でベッドから体を起こし、ベッドに凭れているせいで顔の見えない羽賀の
様子を探る。
少しの沈黙の後、微かに空気が緊張感を孕んだような気がした。

「…お前を見たんだ…半年前くらいに」

「それで…?」

半年前と言えば羽賀の様子がおかしくなり始めた時で、何故だか息が苦しくなった。

「…お前、俺の知らないヤツと一緒だった」


“俺の知らないヤツ”


遠回しな言い方に鼓動が早くなった。

男である以上、欲望がない訳じゃない。
目を逸らせない欲望を適当な相手で満たす。

そうやって十年間、俺はやってきた。
一番、欲しいモノを横目に眺めながら。

「へぇ…声、掛けてくれれば良かったのに」

俺と知らない男を見たからって俺がその男とどんな関係かまで知られた訳じゃない。
必死に平静を装った声は、しかし、微かに震えた。

「…お前とソイツ…ホテルに入って行った」

静かな部屋の中、耳元でどくどくと打つ自分の脈が煩い。
笑えばいいのか、叫べばいいのか。
この場に一番合ったリアクションが分からなくて俺は、ただ、薄明るい部屋の中、俺に背を
向けている羽賀を見詰めていた。

「…お前、あの男と付き合ってるのか?」

静かな声だった。
抑揚のない。
だけど、その声には何故か微かな非難の色が混じっていた。




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