… 愛の大嵐 … 1










自分の身体を這う手とざらついた舌の感触に僕は溢れそうな涙を堪えた。

元華族の父に経営の才は無かった。

年上の者にも様付けで呼ばれ、周りにかしずかれる。
そんな生活に慣れた人間には向上心も他人を押しのけてでも上に這い上がろうとする
気力もある筈がない。
そんな父の会社の膨らんだ負債を肩代わりしようと申し出たのは元柳沢家の下男の
息子の晃男(あきお)だった。

終戦後の日本は何処もぼろぼろで金を握っている人間だけが全てを手に入れる事が
出来た。
戦地で幾つもの修羅場を潜り抜け、日本に戻ってきた晃男の噂は僕の耳にも入っていた。

金の為なら何でもする、と。

そんな晃男が僕達の前に現れたのは一月前だ。

「柳沢家を買いましょう」

晃男はそう言って肉食獣が獲物を見付けた時のような視線を僕に向けた。

「ただし、条件がある。香月(かづき)さんを私に譲って頂きたい」

その言葉に僕は成す術もなく父の横顔を見詰めていた。

「…香月を君に…?」

僕に向けられた父の目が全てを語っていた。

縋るような瞳に含まれた懇願。
贅沢三昧で甘やかされて育った父にお金のない生活なんて想像は出来ない。
しかし、元華族のプライドが無いわけではない。
結局は僕の口から言わせたいのだろう。

「僕は構いません。貴方の元に行きます」

僕に選択する権利なんてものは無かった。
その僕の返事に父の目に安堵の光が宿る。
その瞬間、僕の運命は決まった。


“香月さんを譲って頂きたい”


所詮、召使のような仕事をさせられるのだろう。
その時の僕にはそんな考えしかなかった。
晃男の言った“譲る”という言葉の持つ意味がどういうものかを知ったのは晃男の家に
移った、その日の夜になってからだった。



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下男の住むような部屋に通されると思っていた僕の予想は外れた。
僕が通された部屋は僕が住んでいた屋敷の自分の部屋と変わらないような部屋だった。

只一つ、もうすでに人の使っている気配さえなければ…

「…ここが僕の部屋ですか…?」

「はい、ご主人様とご一緒になります」

何故、同じ部屋に。

「でも…」

「ご主人様のご命令ですので」

これ以上は聞いても無駄だと50代の執事らしき男性は暗に言っている。

「ご主人様はもうすぐお戻りになられますので、お荷物を解かれましたら下で
 ご一緒にお出迎えをとのことです」

「…はい、分かりました」

僕に逆らう権利はない。
只、晃男の望むままに。
それが柳沢家を助けてもらう条件なのだから。
この家の門をくぐった時から僕は晃男の獲物になったのだ。
僕に今、理解出来るのはそのたった一つの現実だけだった。



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「お帰りなさいませ」

屋敷の扉を開けた執事らしき人はそう言って晃男に恭しく頭を下げている。

「堅苦しい挨拶は良いですといつも言っているではないですか」

父と僕には見せなかった少し柔らかい顔で晃男は執事らしき人に気遣う言葉をかけた。
僕の知っている獰猛な肉食獣の目はそこには無かった。
和やかな雰囲気で執事らしき人と語らっている晃男。
まるで僕の存在を無視するかのような晃男に僕は何故か心の奥が痛むのを感じた。

何か仕事をしなければ。
僕はその為にここに来たのだから。

「…鞄を」

自分の使命を思い出した僕は慌てて晃男の側に寄った。

「柳沢のご子息にこんな重い物を持たせて怪我でもされたら大変だ」

鞄を取ろうとした僕にかけられたのはあからさまな嘲りの言葉だった。
執事らしき人に向けられたものとは明らかに違う冷たい瞳。

どうして…

晃男の冷たい視線に呆然と立ち尽くす僕の腕を取って晃男は奥にある食堂に歩き出した。



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食欲なんて無かった。
先程の晃男の冷たい目に僕の心は凍えていた。
何故、あんな目を。

「柳沢のご子息のお口には合いませんか?」

そんな僕の心に追い討ちをかけるように晃男が口の端を上げ、言う。

「…いえ…」

食べなければ、こんなことぐらいで負けてはいけない。
それだけを思い、口に無理矢理食事を運ぶ。
味なんて分からない。
ただ、ただ機械的に食物を口に運び飲み込む。
重苦しい雰囲気の中の食事は一時間ほどで終わった。



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『湯殿をお使いになられてからお部屋へ』

という執事らしき人の言葉に従い、お風呂に入り晃男の待つ部屋に向かう。
軽くしたノックに

「どうぞ」

という晃男の声が聞こえる。
扉を開け部屋に足を踏み入れた僕はテラス側に向けた椅子に腰掛けている晃男の元へと
歩を進めた。

「…僕は明日からどのような仕事をすれば良いのですか?」

相変わらずの冷たい視線に心が挫けそうだったが僕は意を決して尋ねた。

「仕事?仕事なら明日からではなく今からですよ」

そんな言葉を言う晃男の目はまるで値踏みするように僕の身体を眺めている。

「…今から…?」

今から何の仕事を?

晃男の言っていることが理解できなくて晃男を見詰め返す。
僕の視線を受け止めたまま晃男は立ち上がると僕の腕を掴み、歩き出した。
痛いなんて口にする間もなく連れて行かれ、乱暴に身体を投げられる。
背中に柔らかい感触を感じ、そこで初めて僕は自分が投げ出された場所がベッドの
上だということに気が付いた。



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「な、なに…?」

予想もしなかった事態に僕の頭は自分の身に何がおきようとしているのか理解出来なかった。

「何って、仕事がしたいのでしょう?」

相変わらず僕を見下ろす瞳は冷たい。

「…仕事…?」

「何も力仕事だけが仕事じゃない。もっとも身体を使うことには変わりはないが」

その言葉とともに着ていたシャツのボタンが弾け飛ぶ。

こんなことはおかしい。
何故なら僕は男で晃男も男で。

おかしい。

頭の中でその言葉を繰り返した時、僕は今、自分の身の上におきようとしていることを
やっと理解出来た。

「いやっ!」

ありったけの力で晃男の身体を押しやる。
僕にはこれ以上出ないといった力で押しやったのに。
晃男の身体は僕の力ではびくともしなかった。
びくともしないどころか晃男を押しやった両手は晃男の手に掴まれ何時の間に解いたのか
晃男の着ていたガウンの腰紐で縛られ、僕の頭上で一つに纏められていた。

「やめてっ!いや!」

縛られた両手に恐怖心は加速していく。
両手を縛られたことでさっきよりも抵抗は難しくなったがそれでも僕は抵抗を止めなかった。
身体を捩り、晃男の下で足をばたつかせる。
そんなことをしばらく続けていると不意に横に向けていた顔を晃男の手で掴まれ痛い位の
力で正面に向けられた。
晃男の瞳は更に冷たく光っていた。

「…自分の父親が犯した使用人の息子に抱かれるのは嫌ですか?」


父親が犯した使用人の息子…?


「……なに…?」


何を言っているんだろう?
晃男は何を言っているのだろう?
父が晃男の母を犯した…?


「…嘘……そんなこと」

晃男の言ってることがすぐには理解できなくて僕は抵抗を止め、晃男の顔を見詰めた。

「母は貴方の父親にもて遊ばれてぼろ雑巾のように捨てられて死んだ」

散々、周りから甘やかされ育った父は自分の思い通りにならないことは無いと思っている
人だった。

「私の父に母を差し出せと、そうしないと屋敷から追い出すと。勿論、父は拒んだ。
 だから…」


それは秋晴れの日だった。
父の鹿狩りのお供に晃男の父親は選ばれた。
誰かの撃った流れ弾に当たったと。
その時、まだ子供だった僕が周りから聞かされたのは悲しい事故での晃男の父親の
死だった。


「柳沢家に復讐する為に私は戻って来た。戦争で何人もの人を殺しました。
 この手で。生き残ってここに戻る為に」

晃男は自分の手を見詰めた。

「…もう、私に失うものは何もない。自分の命すらも惜しくはない。貴方方を
 破滅させる為なら」

感情的に憎いと殺してやりたいと叫ばれる方がまだ良かった。

なのに…

晃男の声はひどく冷静で、口元に微笑すら浮かべていて。

冷たく僕を見下ろす瞳の奥に僕は晃男の孤独を、苦しみを見てしまった。
許して欲しいなんて言えない。

許して欲しいなんて…

抵抗を止めた僕の上に晃男が圧し掛かる。

自分の身体を這う晃男の手とざらついた舌の感触に僕は溢れそうな涙を堪えた。
これから、僕は晃男の為に生きよう。
そんなことで父の犯した罪が償えるとは思えない。
だけど。
少しでも晃男の孤独が心の傷が癒えるなら、僕はそれでいい。
目を閉じ、身体の力を抜く。
全てを受け入れた僕が流した涙は晃男の孤独を思っての涙だった。




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