… 無に還るとき … 6






温かいシャワーに温かい食事。
そして、軽くなった体。
全てが久し振りのことだった。

本当にあんなにシャワーが気持ちいいと思ったのも、食事を美味いと思ったのも、久し振りの
ことだった。

まるで、体が喜んでるような気がした。
そして、それは俺の顔に出てたらしい。

「えらく今日は顔色がいいな」

夕方から訪れた編集社で十年来の付き合いのある岡崎は俺の顔を見るなりそう口にした。

「久し振りによく寝たんだ」

「その“寝た”はどっちの“寝た”なんだ?」

部内にある小さな会議室の一室で岡崎はコーヒーを口に運びながらからかいを含んだセリフを吐く。

「バカ、お前の考えてるようなことじゃないよ」

慣れた遣り取りに俺は呆れ口調で返す。

「でも、噂じゃ同棲してるそうじゃないか」

しかし、次に岡崎の口から飛び出した頭の片隅にもなかった単語に俺は驚いた後、苦笑を洩らした。


同棲ねぇ…


「そんなんじゃないよ。マンションの部屋を提供してるだけだ」

だが、俺の苦笑混じりのあっさりとした返事に岡崎は残念そうな顔をする。

「なんだ、お前もやっと落ち着く気になったかと安心したのに」

「落ち着くね…」

足を組み直し、煙草を銜える俺に岡崎はさっきまでとはガラリと表情を変える。
しまったと思った時にはもう遅かった。

「宮本、もういい加減、落ち着いたらどうなんだ?そんなに生き急がなくてもいいだろ?」

何回も繰り返された遣り取りに俺は叱られてるガキのようだ。

「別に生き急いでるつもりはないさ」

「俺にはそういう風には見えないけどな。もう、俺達も若くないんだ。そろそろ、先の
 ことも考えたらどうだ?」

「先のことね…」



昔は一緒に朝までよく飲んだ。
金はないのに時間ばかりがあって。
詰まらない話をダラダラと安い酒を飲みながら話した。


『お前には才能がある。だから、俺は絶対、お前の写真集を作るからな』


安い酒がまわって脳ミソが麻痺した頃、岡崎は必ずそう言った。
そして、それは叶った。
海のモノか山のモノかも分からない俺を信じ、認めてくれた岡崎に俺は感謝している。
そして、自分が語ったことを実現したヤツを誇りにも思ってる。
これからもコイツはその貪欲なまでの真っ直ぐさで自分に課したハードルをクリアしていくんだろう。
ちゃんと地に足を着けて。















生まれた時からテレビがあった俺に団塊の世代のようなギラギラの欲望はない。
だからといって平成に生きる世代のような全てに諦めの笑顔を浮かべるほどドライにもなれない。
いつだって“しょうがないか”といって手放せるぺらぺらの欲望と生ぬるい割りきり。
それが俺だ。

ガツガツした欲望はダサイけど、何もいらないと言えるほど潔くもない。
それに全てに知らない顔を世の中はさせてくれない。
否応なしに古い世代が憧れた豊かさは現実を垂れ流す。
見てしまったモノは消せない。
消せないからこそ、俺はクスリに酒にセックスに森に逃げ、自分を保つ。
だからといって豊かさの氾濫の中でそれを享受した生活を送る俺はそれからも離れられない。

落ち着きたいのに落ち着くのが怖い。
そんな情けない俺は毎日を情けなく漂っていた。



















「破滅型の芸術家。なんて、今時、流行らないぞ」

飄々と確信から逃げる俺に岡崎は心配げに言う。

「安心してくれ。破滅出来るほど根性据わっちゃいないさ」

そう、破滅出来るほど俺は立派な人間じゃない。

「もっと鈍感になれよ。と言ったところでどうにもならないんだろうな。それにお前が
 そんなんだからお前の写真は俺達を惹きつけるんだろうしな…」

ただの卑怯な俺に岡崎は苦しそうに笑う。

「俺はまるでお前の命を削ってそれを見せモノにして金を稼いでるみたいだな」

悲しげに笑う岡崎の顔が苦しい。

「安心しろよ。命なんか削っちゃいないさ。死ぬ根性なんかとっくの昔になくしてる。
 それに俺から写真をとったら俺はただのろくでなしだ」


俺一人が消えたところで世の中は何も変わらない。
家族や友人は泣いてくれるだろうが、所詮、人間は忘却の生き物だ。
忘却という生きる為に必要な才能はその内、俺の周りの人間から俺を想い出の一つにするだろう。
だからこそ、俺は生きられる。
俺一人が消えたところで世の中は何も変わらないなら俺一人が生きていても世の中は何も変わらない。
消えてもいいなら生きてもいい。
それは、俺にとって生きる為の免罪符だった。

「ろくでなし、か。じゃあ、お前がろくでなしにならないように友人の一人としては
 仕事を斡旋しないとな」

心配げな顔をもとの顔に戻し、岡崎は苦笑する。
その緩んだ空気に俺は少し冷めたコーヒーを口に運んだ。
























『この前の連載が評判良くてな。お前、今度は街を撮ってくれないか?』


毎月発売の雑誌で連載は六回。
岡崎はそう言った。


『街がテーマなだけで、後はお前の好きに撮ってくれ』


その仕事の依頼を引き受け、久し振りに岡崎と夕食を一緒にする約束もした俺は岡崎が仕事を
終らせるまでの時間を編集部の中で過ごした。






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