… 無に還るとき … 7






結局、俺達が出版社を出たのは、夜の十一時を過ぎてからだった。

行きつけの居酒屋に向かう為に乗り込んだタクシーの中で岡崎は携帯を取り出し、俺に目で
詫びてきた。

「もしもし…あぁ…俺だよ。さっき、会社を出たんだ…うん?ちゃんと覚えてるよ…
 明日は久し振りにゆっくりしよう…あぁ…じゃあ、おやすみ…」

携帯を切った岡崎の顔は穏やかだった。

「俺と飯なんか食いに行っていいのか?」

久し振りという岡崎の言葉にからかいを込め、言う。

「大丈夫だよ。明日、久し振りに休みがとれたからな。明日、ゆっくりするさ」

俺のからかいに照れるわけでもなく、岡崎は静かに微笑み、答える。

実力の伴った野望と一人の相手を大切にする地に足の着いた恋愛。

俺とは違って岡崎は確実な日々を送っていた。























居酒屋で軽く飲みながら腹を満たした俺達は“カザルス”に向かった。
“カザルス”の店内は平日の深夜一時を過ぎたこともあって、客はまばらだった。
客の入り状況でカザルスは店の閉店時間を決める。
それに今日は店を閉めた後、純の誕生日祝いをする予定だから、この状態だと今日の閉店は
早目になるだろうと俺は定番のマイヤーズを飲みながら思った。

そして、俺の予想通り、最後の客が二時過ぎにカザルスを出てから怜は俺と岡崎を店に
残したまま、ドアに閉店のプレートをかけた。
























純をマンションに住まわすことになった経緯を居酒屋で俺は簡単に岡崎に話した。


『お前らしくないな』


岡崎はそう言って笑った。


『純君か…一度、会ってみたいな。まぁ、お前が会わせてくれる気があるならだけど』


チラと俺を横目で見る岡崎に俺はカザルスである純の誕生日祝いの話をした。


『お前も来るか?』


岡崎の返事は分かりきってるのに敢えて聞いたのは、妙な照れ臭さから俺が一人でカザルスに
行きたくなかったからかもしれない。


『行かない訳ないだろ』


案の定、岡崎は予想通りの答えを返してきた。

























俺と岡崎しかいない店内で怜達はテーブル席の一つにグラスと皿を並べ始めた。
手伝おうとした俺達に怜は

『すぐに終わりますから』

と言った。
そして、その怜の言葉通り、準備はすぐに終わった。

「店内の灯りを落として。コウに電話して」

「はい」

怜の指示にユタカがコウに電話をしてから五分もしない内にコウは純を連れて戻って来た。
灯りの落とされた店内で、怜がケーキのロウソクにともした光だけが瞬いていた。

ロウソクの数は二本。
純の年も俺はこの時、初めて知った。

コウに連れられて店の奥から出て来た純は自分のおかれた状況がすぐには分からないようで、
キョトンとしていた。

「英二さん…?それに皆さんも、どうかしたんですか?」

俺がカザルスに来たことは知ってても何故、閉店した後まで、居るのか不思議に
思ってるんだろう。
俺の名前を呼ぶ、純の姿はまるで森で人間がいると知らずに姿を現した小動物が
戸惑っている姿に似ていて愛らしかった。

「一日遅れたけど、お誕生日おめでとう」

コウに連れられ、戸惑いながらテーブルの前に来た純に怜が祝いの言葉を口にする。
怜の言葉をきっかけにユタカはシャンパンを開けると皆のグラスに注いだ。

「これは僕からのプレゼントだから」

予想していなかったことに驚いた顔をしている純に怜がシャンパンを渡し、微笑む。

「純、おめでとう」

渡されたグラスを純が手にとるとユタカとコウは純に祝いの言葉を言った。

「…ありがとうございます」

グラスを手に持ち、俺達の顔を見た純の声は涙声だった。

「純君は他のメンバーに負けないくらい頑張ってくれてるからね。これくらいしか、
 出来ないけど。さぁ、ロウソクを消して」

涙を手で拭く純を怜が優しく促す。
怜にロウソクの灯りを消すように促された純は俺の顔を見てきた。

こんなに優しくしてもらって、その優しさに甘えていいのだろうか?

俺には純がそう聞いてきてるような気がした。
だから、俺は頷いた。
与えられる優しさに甘えていいと。

俺の返事に安心したのか純は静かに微笑み、そっと、ロウソクに顔を近付けるとロウソクの
灯りを一息に消した。


『なんか、春の雨のような子だな』


怜達と純が穏やかに笑い合う中、岡崎は俺にそう言った。
俺が感じてたことをそのまま言葉にした岡崎に俺は苦笑を洩らした。

まるで、森を、地球を包むように穏やかに天から舞い落ちる水の雫。
生命の源になる水はあらゆる汚れさえも洗い流す。

俺の目には純がそんな春の雨のように見えた。























純の誕生日祝いは一時間程で終わり、カザルスの前で岡崎と別れた俺は純と一緒にタクシーに
乗ってマンションに帰った。

明け方のキッチンでコーヒーを二つ淹れた純はソファーのテーブルの上にそれを置くと俺の
前に座り、真っ直ぐ俺の目を見てきた。

「今日は本当にありがとうございました」

穏やかに嬉しそうに微笑む純はまさに春の雨だった。

「俺は何もしてないよ。怜に呼ばれただけだから」

真っ直ぐに向けられる感謝の気持ちに照れて苦笑した俺に純は顔を横にゆっくりと振った。

「いいえ。全部、英二さんのお陰です。本当に今日は嬉しかったです。僕、今日の
 ことは一生忘れません」

さっきのことを思い出したのか泣きそうな笑顔で言う純に俺は軽い衝撃を受けた。


“イッショウ、ワスレマセン”

まるで、別れの言葉だ。

そう思って、気付いた。
この生活は一生続かない。
そんな当たり前の、当然のことを俺は忘れていた。

今の今まで。
ずっと。

それどころか、純はずっとここにいるんじゃないか、なんて自分勝手に錯覚すらしていた。
そんなことは有り得ないのに。

いつか来る別れを初めてリアルに実感した俺は自分でも驚くくらい動揺し、ソファーの上に
ある純への誕生日プレゼントが入っている紙袋を軽く握り締めた。






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