… 無に還るとき … 5







『明日、店を閉めてから、ちょっとしたお祝いをしようと思うんです。純君は
 本当に頑張ってくれてるので。皆にも話したら賛成してくれて。勿論、純君
 には内緒ですけど。もし、お時間があるなら英二さんも来ませんか?』



意味ありげな微笑みを浮かべ、マンションの玄関でスニーカーを履く俺に怜は言った。



「なんだかなぁ…」

ぼそりと呟いた独り言は夜の空に消えた。

マンションへの道を歩きながら、俺は自分を納得させる理由を見付けようとしていた。

ていうか、なんで納得しなきゃいけないんだ?
たかが、誕生日を言ったか言わなかったかだけの問題だろ?


「ハァ…」

盛大に吐き出した溜め息は誰に聞かれることもなく、白い息になって空気に還る。
初めて味わうモヤモヤとした不可解な気持ちを抱え、俺はもう眠ってるだろう純がいる自分の
マンションに向かって白い息を吐きながら歩いた。



















玄関から続く廊下の先にあるリビングから漏れる明かりに純が起きてるかもしれないと思い、
廊下とリビングを隔ててるドアを開ける。

日付は一時間前に変わってとうに純の誕生日は終わっていた。
開けたドアの向こうから俺を迎える声はない。
あるのは少し低めのエアコンから流れてくる温風と人の発する温度だけ。
俺を初めて不可解な気持ちにさせた純はリビングのソファーで眠っていた。

「風邪ひくぞ」

独り言を呟き、苦笑して眠る純の側に近付く。
綺麗に閉じられた瞼は俺の気配にも開かれなかった。

「…ごめんな」

誕生日に一緒にいれなかったことを謝って眠る純の体を抱き上げる。
深く眠り込んだ体から温かい体温が俺の腕に伝わる。
純と一緒に暮らすようになって気付いたことは人の体温の温かさだった。

36℃

たったそれだけの温度なのに。
そのちっぽけな温度は俺のマンションで確実に何かを育んでいた。






















少しも起きる気配のない純の体を純の部屋に運び、ベッド代わりのマットレスの上に下ろす。

静かな寝息に36℃の体温。
冬の冷たい澄んだ空気の中で純の体温は懐かしかった。
それは言葉では説明出来ない懐かしさだ。
快楽を共有した懐かしさじゃない。
ずっと、ずっと。
ずっと、遠い日のようなのに最近のことでもある。
何万年前から受け継がれた俺のDNAが知ってる懐かしさ。
そして、それは森に息づく生き物に感じる懐かしさ。

森でしか感じたことのない懐かしさが目の前にあることに俺の中に流れる血が反応し、決して
森でしか掴めない懐かしさに俺は指を伸ばし、純を背後から抱き締めるように純の横に横たわる。
しかし、穏やかに眠っていた純は俺のその行動に目を覚ました。

「……英二さん…?」

一瞬にして腕の中の体は強張り、声は不安なものに変わる。

「…何もしないから…ただ…ただ、純のこと抱き締めて眠りたいんだ」

「……」

俺の願いに返事はなかった。
だけど、言葉での返事はなかったけど。
言葉の代わりに純の体から、少しづつ強張りがとれていく。

「……ありがとう」

その言葉が一番、この場にしっくりときた。

さっきまで冷えきっていた部屋に温度が戻る。
二人でいるからといって、36℃が倍になるわけじゃないけど。
まるで、羊水の中のような優しい温もりに少しづつ瞼が重くなって。
純を腕の中に抱き締めたまま、俺は羊水に守られた胎児のようになんの不安もない深い眠りに
落ちていった。



































深い、深い眠りだった。

夢も見ず、一度も目も覚めず。
何年かぶりに俺は死んだように眠った。

まるで、生まれる前の胎児のように眠りを貪った俺が目を覚ましたのは肌に感じる太陽の光の
暖かさからだった。

ゆっくりと目を開け、ぼんやりと自分の肌を照らす太陽の光に目を向ける。
光は粒になって俺に降り注ぎ、俺の体を埋めていく。
その光の鱗に覆われた自分に光合成をする植物の気分になってしばらく動けずにいた俺は眠りに
落ちた時には腕の中にいた純がいないことに気付いて、ようやく体を起こした。

純が守っていたボーダーラインを飛び越えたのは俺の方だった。
それが良かったのか悪かったのかは分からない。
だけど、飛び越えてしまったのは事実で。

その予想外の自分の行動に少し戸惑いながら俺は純の部屋から抜け出し、リビングへ続く扉を
開けた。























開けた扉の奥、キッチンでは純が朝食を作っていた。
そして、そのモノの焼ける芳ばしい匂いに俺は自分が空腹だということを知った。

空腹。

それも久し振りに感じる感覚だった。

「おはようございます」

ベーコンの焼ける匂いに誘われ、キッチンに近付いた俺に気付き、純が微笑む。

「…おはよ」

まるで、何事もなかったように微笑む純に戸惑ったのは俺の方だった。

「もう少ししたら出来ますから」

「あ、うん…」

ただ、一緒に眠っただけなのに。
セックスの後よりも何故か気まずくて。
俺は純から目を逸らすと時計に視線を移した。

時刻は十一時。


「え?もう、こんな時間?」

そして、その時間に驚く。

「もしかして、起こした方が良かったですか?ごめんなさい。あんまり、英二さんが
 ぐっすり寝てたんで…」

申し訳なさそうな顔をする純に違うという意味で苦笑を返す。

「いや、違うから大丈夫」

驚いたのは起きた時間にじゃなくて、眠ってた時間に対してだった。
九時間近くも眠ったなんて。
そりゃ、腹も減るだろ。

「英二さん…?」

一人で苦笑してる俺に純が心配そうな顔をする。

「俺、シャワー浴びてくるわ。良く寝たお陰で腹減ったし」

「シャワーから出る頃には出来上がってますから」

伸びをして笑う俺に純もようやく、もとの笑顔に戻る。
その春の雨のような穏やかな純の笑顔に笑い返すと俺は空腹を我慢しながらバスルームに向かった。






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