… 無に還るとき … 4






俺に迷惑を掛けられないと言って、マンションから出て行こうとする純を仕事を見付けて、
アパートを見付けるまでという条件で強引に説得して、マンションに引き止めてから3ヶ月が
過ぎた。
見知らぬ他人をマンションに引き入れて、部屋を一室明け渡して、あまつさえ、必要最低限の
生活用品一式を揃えるなんてことをやってのけた自分に一番驚いてるのは他の誰でもない
俺自身だった。

言いたくないことは何も言わなくていい。

純を初めてマンションに泊めた時に俺は純にそう言った。
俺の言葉に純は泣きそうな顔をして、黙って頷いた。
だから、未だにどうして、男と別れたのかは知らない。
だけど、田舎が長野だということ、男と一緒に暮らしていたことだけは3ヶ月間一緒に暮らす内に
純がぽつりと話した。
男と一緒に暮らしてたせいかもしれない。
純は次の日から仕事を探しながら、家事一切をこなした。
しかも、それに押し付けがましさはなかった。
家族でもなければ、恋人でもない赤の他人同士の共同生活だからかもしれないが、純は踏み越えては
いけない一線をしっかりと守っていた。
そんな純がバイトに行き始めたのはマンションに来てから1週間後だった。
丁度、裏方のバイトが一人辞めて、新しいバイトを探してると言った『カザルス』の玲に俺は純の
話をした。
一度会ってみたいと言う玲に純を引き会わせて、ものの数分で話はまとまった。


『すごく助かってます』

先月、カザルスに飲みに行った時に玲は微笑みながら、俺にそう言った。
まるでガラス細工のような綺麗な顔をして、全てを受け入れてくれる雰囲気を纏っていながらも玲は
シビアだ。
誰の紹介であろうがやる気のない人間はすぐに切る。
そんな玲が満足そうな笑顔で褒めたぐらいだから、純は本当に頑張ってるんだろう。
玲が集めた人間ばかりが集まってるからかもしれないが、カザルスは人間関係もいい。
当初、同じ年代の人間と比べると大人しい純が賑やかなカザルスのメンバーに馴染めるか心配したが、
そんな俺の心配をよそに純は一月も経たない間にメンバーに馴染んだみたいで、時々、ぽつりと
カザルスの話しを穏やかな笑顔を浮かべ、するようになった。
カザルスで働き始めて笑顔を見せるようになった純の姿に純には悪いが俺は子供の時に拾った子犬を
思い出していた。

子犬の“ツバサ”を拾ったのは小学校から家への帰り道にある小さな公園の草むらの中だった。
古びた段ボールの中でツバサは自分を見下ろしてる俺をジッと見上げていた。
甘えた声で鳴く訳でもなければ、威嚇して吠える訳でもない。
大人しく静かに段ボールの中から俺を見上げているツバサに気が付いた時には俺は段ボールを両手で
大事に胸に抱き、家への道のりを歩いていた。


『まぁ、可愛い子犬ね』


俺の拾い癖はきっと、母親譲りなんだろう。
段ボールに入ってるツバサを見た母親は怒るどころか、ツバサに『初めましてワンちゃん』と
話しかけた。
そして、その日からツバサは俺達家族の一員になった。
そんなツバサが死んだのは俺が24歳の時だ。
16年も生きたんだから、犬にしたら大往生なんだろう。
ツバサがもうダメかもしれないという母親の電話に急いで実家に帰った俺の到着を待っていたかのように
俺の顔を見て、弱々しく一鳴きしてからツバサは俺の腕の中で死んだ。

温かい体が徐々に冷たくなって、固くなっていくさまに俺は初めて“死”というものを実感した。
涙を流すこともなく、俺は冷たくなっていくツバサの体を何時までも手の平で撫でていた。

そんなツバサのことを純は俺に思い出させる。
だからかもしれない。

好みのタイプなのに純に対しては不思議と変な気が起こらない。
好みのタイプで手を伸ばせば触れれる距離に純はいる。
しかし、そんなどこででも吐き出せる欲望をわざわざ無理に純にぶつけ、穏やかな今の二人の関係を
潰す気にはならなかった。





























「泊まっていかないんですか?」

セックスの汗をシャワーで流した玲はバスローブ姿で寝室のドアに凭れ、ジーンズを履く俺に
そう言った。

「今日はいい、帰るわ」

ジーンズを履き、シャツを身に着けた俺はダウンジャケットをはおるとベッドのサイドテーブルの
上に置いていたタバコのボックスから1本タバコを抜き、それを耳に挟むとタバコとライターを
ジーンズの後ろポケットに突っ込んだ。

「マンションで純君が待ってるから?」

悪戯な微笑みを浮かべ、玲がドアに近付いた俺の顎のラインを指でなぞる。
玲に図星をさされ、俺は笑った。

「まぁね」

正確には純は待っていない。
一緒に生活するようになって、俺は純に俺を待ってなくてもいいと言ってある。
ただ、俺が純がいると思うと外泊する気にならないだけだ。

俺の反応を楽しみたいが為の玲の言葉に苦笑いしながら玲の腰を引き寄せ、別れのキスをしようと
した俺の唇を玲が微笑みながらかわす。

「帰ったら二人で純君の誕生日のお祝いですか?」

「え?」

しかし、俺のキスをかわして優雅に微笑む玲の言葉は俺を驚かせた。

誕生日祝い?
純の?


「純君の誕生日、今日ですよね…?」

純がカザルスに入る時に履歴書の類は出してない。
最初に訳ありだと説明した俺に純を気に入った玲は俺の所にいるという確認さえ取れればいいと
言った。
俺の反応に玲も少し驚いて目を瞠る。

「…知らなかったんですか?」

「…あぁ、全然」

全然というか、まったく。

「今日、純君の誕生日ですよ」

別に純が自分の誕生日を俺に言う必要はない。
それに、純の性格からいって、それを言わなかったのは俺に遠慮したからだろう。

だけど。
一緒に暮らしてる俺にすら言えなかったことを玲に言っていたことが何故か寂しかった。
と、同時にそれだけ、純に遠慮をさせてる自分が不甲斐なかった。
寂しさや不甲斐なさなど、自分でも整理しようのない複雑な気持ちが胸に渦巻く。

俺自身、他人に対してこんな気持ちになったのは初めてで、説明しようのない複雑な気持ちを
持て余したまま俺は冬の寒い街をマンションに向かって歩いた。






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