… 無に還るとき … 3






2LDKのマンションの廊下に所狭しと乱雑に置かれたガラクタを踏まないように純は俺の
マンションの廊下にそっと上がる。

「あ、そこ、その右手のドア開けて」

純が廊下に踏み出したことを確認してから俺は玄関のドアを閉めると純に指示を出しながら、
自分も靴を脱いで、廊下に上がった。

「その部屋、今、使ってないから、好きに使っていいよ。と、荷物だらけだけど」

その一室は今まで出した写真集や実際に写真集で使った写真、ネガなどを保管している部屋だ。
保管というのは名ばかりで実際は無造作に積み上げてあるだけだが。

「一応、マットレスはあるから。もし、嫌なら、純君は俺のベッドに寝てもいいし」

部屋のドアを開け、一歩部屋に入った所で立ち止まっている純の横を通り過ぎ、段ボールを
部屋の隅にやり、人一人が生活出来る空間を作る。
そんな、俺を見ていた純は俺を手伝おうと、部屋に入って、段ボールの中を珍しそうに
覗き込んだ。

「…写真だらけなんですね」

「あぁ、まぁ、一応、写真家の端くれだからね」

「写真家…?」


フォトグラファーという名前は好きじゃない。

ミュージシャン、アーティスト、フォトグラファー。
いかにもそこいらにいる凡人とは違うといった己の形容詞に群がる人間の中身は所詮、自分の
マスターベーションを他人に見せて金を貰ってるナルシストだ。

芸術はマスターベーションに過ぎない。

ひたすら、他人に自分のマスターベーションを見せてる俺にしゃれた横文字はその名前が
しゃれてればしゃれてるほど、陳腐に思えた。


「写真撮って、それ売って、飯食ってんの」

そう。
それだけのこと。

何も創り出さなければ何も産まない。


「写真、見てもいいですか?」

「あぁ、つまんないと思うけど」

フローリングの上に胡坐をかき、段ボールの中を見ながら俺は答える。
俺の了解を得ると純は俺の横に座り、段ボールの中から、1冊の写真集を取り出した。


“還りゆく地”というタイトルのその写真集は1年前に出した熊野の森を撮った写真集だった。

静かな部屋の中に、俺達の呼吸の音とページを捲る音だけが聞こえる。
ひどく、ゆっくりとした紙の音に不思議な感覚が俺を支配する。

今、俺がいるのは、間違いなく自分の家なのに。
空気が、匂いが、音が、“森”のような錯覚を俺におこさせる。
確かに俺は森から帰ってきたハズなのに。
俺の隣にいる純の息遣いが、体温が、俺に森を思い出させた。

純の規則正しい呼吸に、森の中に入り、森に包まれた時のような安堵感を覚え、深く呼吸を
する。
一人の時とも違う静寂に身を浸し、俺はしばし、不思議な時間を送る。
しかし、そんな俺を現実に引き戻したのは、一瞬、乱れた純の息遣いだった。
規則正しかった呼吸が一瞬止み、本当の静寂が部屋を満たす。
突然、現れた空気の乱れに視線を純に移す。
と、俺がそこに見たのは、写真集の中程の見開きのページを広げ、そのページを見つめながら、
大粒の涙を溢している純の姿だった。

その見開きのページに使った写真を撮った時のことを俺は昨日のことのように覚えている。

穏やかな静けさが、怖いくらいの静けさが、全てを支配していた。
まるで、森に潜り込んだ俺の存在さえも打ち消すような圧倒的な“静けさ”聞こえるのは
森の葉を揺らす風の音と、自分の鼓動の音だけ。

森、いや、地球に一人ぼっちになったような錯覚。

そんな錯覚に恐怖を感じながらも俺は自分の鼓動の音に生きている自分を実感した。
孤独という恐怖は俺に不思議な安堵感をもたらし、その安堵感はどんなドラッグよりも俺を
魅了し、俺は“森”にはまっていった。

そう、純が見入っているその写真は俺が森にはまるきっかけとなった一枚だった。

自分の横顔を凝視している俺の視線に気付いたのだろう、純はまるで夢から覚めたような目を
俺に向けた。


「…ごめんなさい…余りにも静かで…田舎の森を思い出してしまって…」

儚気に微笑む顔には目尻に涙の跡がある。
どうしてもその涙の跡に触れたくて。
俺は純を驚かさないようにそっと親指で純の目尻の涙を拭った。
俺の行為に純は不思議そうな顔をする。
自分の親指に触れた涙を俺は温かいと思った。
そして、自分の撮った写真に対するリアルな反応を俺は初めて見た。
俺にとって写真はマスターベーションで、自分の為だけのモノだ。
人の為に、人に見せる為に写真を撮ったことはない。
しかし、そのどこまでも、利己主義でしかない俺の写真に純は涙を流した。
それは、俺にとっては衝撃だった。


「…ごめんなさい」

今日、初めて会った人間の前で泣いたことに恥じらったのか純は俺の指から逃げるように
顔を俯かせる。

抱き締めたい。

俺の下らない自己満足の写真に涙を流してくれた純を抱き締めたい。
その、自分の胸に突如湧いた感謝の気持ちと申し訳なさに俺は純の体を抱き寄せ、まるで、
綿菓子を包むような慎重さで純を抱き締めた。

「…宮本さん…?」

純の体がすぐに強張る。

「ごめん…ちょっとだけ。少しの間だけでいいから…このままで」


ほんの少しの間だけでいいから、このままで。
このままでいたい。

赦しを得る為の孤独も。
全てを認める為のドラッグも。
全てを諦める為の快楽も。

ナニも要らない。

だから このままで 俺の懇願に純は体の力を抜き、俺の腕の中に収まっている。
そんな純を抱き締めながら、俺は純に抱き締められていた。






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