… 無に還るとき … 2






「悪い、今日、遠出から帰ったばかりで散らかったままだけど…」

自宅のマンションのドアを片手で支え、先に入るように促した俺を純は不安気な瞳で
見上げてきた。

「大丈夫って言っても心配か…」

純の警戒は当然だろう。
3時間前まで顔も知らなかった人間の家に招き入れられたんだから。

「…いえ…ごめんなさい…」

純は俺の苦笑に少し硬い笑顔を浮かべる。

「うーん、まぁ、しょうがないか。こんな怪しい風貌だし」

伸びた不精髭に適当に羽織ったジャケットと履き古したジーンズ。
どこから見ても真っ当な人間には見えないだろう自分の格好に俺は改めて苦笑を洩らした。



































結局、俺が差し出した金を純は受け取らなかった。

しかし、一旦は相手に差し出したモノを俺も引っ込める訳にはいかず、往来で3万は俺達の
間を行き来した。


「気にしなくていいよ」

「受け取れません」

何度もそんなやり取りをしてるうちにまるでどこかのランチバイキングのオバサン達の
ようだとふと思い付いて、俺は吹き出した。

「なんか…オバサンみたいだな。俺達」

「本当…」


俺につられ、純も笑う。

深い静かな色を湛えた瞳がすっと綺麗に細められる様に静寂しかなかった森にふと吹いた
清らかで澄んだ風を思い出す。

時間を忘れ、場所を忘れ。
俺は暫しの間、純の笑顔に見惚れていた。

「ここでこうしててもしょうがないし…取りあえずメシ食いに行こう」

「え?」

何を言われたのか理解出来ないといった風の純の手を握り、歩き出す。

「あ、あの…っ」

「中華は好き?」

少し強引だとは思ったが純の手を離す気にはならなかった。

「え…?」

「中華、好き?」

振り返り、もう一度問う。

「はい…」

「じゃあ、中華に決定だ」

俺の勢いに押され、純は返事を返す。

「これからのことは腹が膨れてから考えよう。実は朝からナニも
 食ってないんだ。俺」

それは本当のことだ。
帰るギリギリまで森を撮っていた俺は朝にコーヒーを飲んだだけで何も口には
していなかった。

「中華だったらナニが好き?」

「…餃子です」

「お、気が合うね。俺も中華じゃ餃子が一番だな」

そんな他愛のない話をしながら手を繋いだまま歩く。
俺の強引さにこれ以上何を言っても無駄だと諦めたのだろうか。
俺に手を引かれ、抵抗もせず大人しく付いて来ている純に俺は笑顔を向けた後、行きつけの
中華屋に足を向けた。







































繁華街から一つ路地を入った所にある行きつけの中華屋の暖簾を純の手を握ったまま潜り、
いつものようにカウンターに座る。

「何でも食いたいモノ、注文して。ここ、店は狭いけど味は抜群だから」

「狭いは余計だろ?それより、英ちゃん、いつ帰って来たんだ?」

「今日の夕方」

十代の頃から知ってるオヤジさんの質問に俺は返す。

「…英ちゃん…?」

オヤジさんが呼んだ俺の名前を小さな声で繰り返した純に俺は自分の名前をまだ、
言ってないことに気付いた。

「あ、自己紹介がまだだよな。俺は宮本英二、ヨロシクってのも変か…」

自己紹介をした俺を純は大きな瞳で見つめながら樋口純という自分の名前を名乗った。
































純は遠慮がちに俺が頼んだモノに箸を伸ばす。

「旨くない?」

「いえっ。すごく、美味しいです」

オヤジさんを目の前にして、純は目を瞠り、慌てて答える。

「純君がたくさん食ってやらないとオヤジさん、泣くよ」

「ホントに。せっかく、作ったのになぁ。英ちゃんなんか、何がいいんだか、
 一時期、毎日のようにうちに食いに来てたけどなぁ」

「カネがなかったんだよ。昔は。タダで飯食わせてくれるのって、ここぐらい
 だったから」

芸大の時も、芸大を中退して、フォトグラファーのアシスタントをしてた頃も、
入ったカネはカメラやフィルム、又は酒に消えた。
自業自得だが、とにかくカネがなかった。
しかし、カネは無くても腹は減る。
写真をやる為には、いや、生きてく為には腹を満たさなきゃならない。

「若い時に出世払いで、よく飯を食わせてもらってたんだ」

俺とオヤジさんの顔を交互に見る純に説明する。

「そんなことばっかりしてるから、店大きくならないんだよ」

実際、オヤジさんの料理は旨い。
名前ばかりや、高級感を売りモノにしてる店とは比べ物にならないくらいに。
なのに、店が当たらないのはモノになるかどうかも分からない夢を追い掛けてる若い連中に
タダ同然で飯を食わせてやってるからだろう。

「俺にはこの店の広さが丁度、いいんだよ。それに、どうせ、気ままな
 独身オヤジだから、自分一人、その日食っていけりゃいい」

「ホント、オヤジさんは欲が無いんだから」

呆れた風に言った俺にオヤジさんは笑う。

「人間、分相応って言葉がある。自分のことも分かんねぇで、高望みすると
 ろくなことは無いんだ」

十代の頃から何回も聞かされたセリフに俺は苦笑する。

俺は、今、ちゃんと“分相応”に生きてるだろうか。

俺達、人類は“分相応”に生きてるだろうか。

いくら、“森”に憧れたところで、俺達は、もう、森には帰れない。
特に、都会(ここ)に住む人間は。

少し、ほんの少し、手を伸ばせば、掴める“欲望”はキリがない。

“カネ”

“セックス”

“ドラッグ”

身近にある欲望は俺達に快楽をもたらし、俺達を他者への無関心へと誘う。
己の欲望を追求し、森を裏切り続けた俺達は今更、森には戻れない。
しかし、森への郷愁を捨て切れない俺達は人工の森を創った。
それが“都会”だ。
木に似せたビルに川に似せた道路。
そして、野性動物を模した車。
己らの創り出した人工の森で俺達は今日も膨らんだ欲望を満たしていた。

「ところで、これからのことだけど、俺んちに来ない?」

オヤジさんとの久し振りの会話に純を巻き込み、純の警戒心が薄れ出した時を見計らって
俺は提案した。

「…でも…」

「どうせ、一人暮らしだから、気がねしなくていい」

「……」

「純君が俺と一緒が嫌なら俺が友達の所に行くし」

「そんな、僕は宮本さんと一緒でも…」

「じゃあ、決定だ」

ある意味、誘導尋問に近い形で純からイエスを導き出す。
導き出したイエスを盾に俺は純を自分のマンションに招待した。






next