… 無に還るとき … 1








森が好きだ。


鬱蒼とした、まるで地球という小さな星の血管のように張り巡らされた枝の中をウィルスに
なった気分で俺は歩いて行く。

いや、ウィルスになった気分という表現は間違ってる。

ウィルスになった気分では無くて、地球にしてみれば人間という一番最後に自分の中に
誕生した小さな小さな生物はまさにウィルスだ。

どの生物よりも一番最後に生まれたくせに、このウィルスはどの生物よりも一番、自己の
欲望を充たす為に発展した。

弱い自己を守る術を知らないウィルスは自己を守る為に科学という名の鎧と矛を作った。

そして、そんな弱いウィルスを森はただ、静かに見ているだけだ。

受け入れも拒絶もせず、森はただ、眺めている。

やがて、己の膨らみ過ぎた欲望に押し潰され、滅びゆく生物を。

ただ、ただ、静かに。

時々、葉を揺らせ、笑いながら。











春には春の。
夏には夏の。
秋には秋の。
冬には冬の。

足音を聞きながら俺は森に潜り込む。
俺の足音にさっきまで賑やかだった森が急に押し黙り、自分の中に入り込んだ異物を好奇の
目で見詰める。



“お前は誰だ?”


“お前は何者だ?”



俺はあんた達の末弟だ。

一番小さくて弱い。

あんた達がいなけりゃ生きてさえいけない。


小さな

小さな…


俺が一歩、足を踏み出すごとに森は静まり返る。

まるで、排除出来ない異物を黙殺するかのように静まり返る。
そして、俺は静けさだけが支配する森で一心不乱にシャッターを切る。

辺りには何もない。

生命を嘔歌する声も、異物に騒ぎたてる声も。

ただ、ただ、静寂だけが支配する世界で俺はひたすらシャッターを切る。

自分が存在していることに赦しを求めるように。






















まるで腹が膨れた野良犬が寝床に帰るように俺は一つの仕事を終えると『カザルス』に
足を向ける。

森から都会へ。

さっきまで感じていた“自然”を糧に俺は“都会”という名の森に別の糧を求め、帰る。

都会を五月蝿いと言うヤツがいる。
しかし、俺はそうは思わない。
都会は森と同じく静寂に包まれている。

自分以外の人間に関心を持たない静寂さ。

それは俺にとっては居心地のいい静寂さだった。

いつものように撮影を終えた足で街に戻り、『カザルス』に向かう。

無秩序で有りながらもどこかお互いを認め合う形で林立している都会の大木、ビルを頭上に
駅前でたむろする人々を眺めつつ歩く。

森とは違う久し振りの安堵感にひっそりと一人笑った俺の目に映ったのは言い争う二人の
男だった。
言い争うと言ってもそれは片方の男が一方的にもう一人の男を怒鳴り付けている、という
状況だった。
周りの人間はこの街ではありきたりな光景に少しだけ目と足を止めてから知らない振りを
決め込む。
俺だってそんな周りの人間と変わらない。

他人の揉め事には関わらない。

それはこの街で生きていく為の決まり事だ。
そう、他人の揉め事には関わらない。

それなのに…

片方の男が激昂し、もう片方の男に腕を振り上げたのを見た途端、俺は何故か二人の元に
駆け寄り、男の振り上げた腕を掴んでいた。

「なんだ、お前?」

案の定、俺に腕を掴まれた男は俺を睨み付けてきた。

ナニをやってるんだ、俺は…


「いやぁ…」

「なんだ!文句でもあるのか!」

身長は俺とさほど変わらない。
神経質そうな顔はいかにもエリートぽかったが、男の表情は荒んでいるように見えた。
それに対してもう一人の方はと言うと、俺より10センチは低い身長に漆黒の髪、小さな
顔に収まっている二つの瞳は深い色を湛えて、昨日まで居た長野の森を思わせた。

やばいなぁ。

殴られそうになってる方を見て、そう思った。
どう見ても殴られそうになってる方は俺のタイプだった。
考えるよりも先に体が動いてしまってから気付く。
男の腕を止めたのは下心からか。

「取り敢えず、暴力はどうかと思うけど?」

俺に腕を掴まれたまま、男は俺を値踏みするかのように上から下に眺める。

「お、お前には関係ないだろう!」

威嚇する声が微かに震えていたのは気のせいでは無いだろう。

「まぁ、関係ないって言ったらないんだけど…」

自分が美しいと感じるモノが詰まらないことで傷付くなんてことを見逃せないのは常に
自分以外のモノを被写体として見てしまう職業病のせいかもしれない。

「なんなら、俺が相手するよ。ホラ、あんたもやりがいがある方がいいだろ?」

理由もなく人を殴ることはしばらくしてないが、まだ、体はなまっちゃいないハズだ。
瞬時にそんなことを考えて言った俺の申し出に男は黙ってしまった。

「で?どうする?俺と遊ぶ?」

男の沈黙に痺れを切らして、もう一度問う。
そんな俺を男は睨むと俺の手を振りほどいた。

「お前と遊んでるほど暇じゃない。そんなに純(じゃん)を庇いたいなら
 好きにしろ。純、新しい男が見付かって良かったな。せいぜい、コイツを
 楽しませてやれよ」

嘲笑と共に侮蔑の言葉を吐き捨てると男は俺達に背を向け、行ってしまった。

まったく、負け惜しみだけは一人前か…

遠くなる男の背中を眺めながら苦笑いを浮かべたまま俺は“純”と呼ばれていた青年に
顔を向けた。

「で、純君だっけ?余計なことしたかな?俺」

男の捨て台詞に男と純という青年がそういう関係だったことは想像出来た。

「…い、いえ…すみません。有難うございました」

呆然としていた顔はすぐに申し訳無さそうな顔に変わる。

街はすっかり、秋の気配に包まれて朝晩は肌寒いくらいだ。
なのに純という青年は薄いTシャツにジーンズといったいで立ちで肩には小さなボストン
バッグが掛っている。

何が原因かは分からないがさしずめさっきの男との関係が破綻し、一緒に住んでいた場所を
出て来た。
そんなところだろうか。
まるで家出少年のような青年の格好からは持ち合わせも有りそうには見えない。

「余計なお世話ついでにもう一つ。今晩泊まる所のアテは?」

しかし、この質問はいささか早まったかもしれない。
いきなりの俺の質問に青年はすぐに驚きの表情を浮かべた。

「…え…?」

「あ…いや、ソレ」


しまった、唐突過ぎたか…

ずっと人間に会っていなかったせいかもしれない。
いくら、好みの顔だったとはいえ、他人の揉め事に関わった上に相手の寝床まで心配するなんて。
らしくない自分の行動を誤魔化すように俺は青年の肩に掛っているボストンバッグを指差した。

「あ…」

それでも、俺の勘は外れていなかったらしい。
青年は俺の指先にあるボストンバッグに視線を移すと困ったような顔をした。

「まぁ、これも何かの縁だし。3万あったらビジネスホテルには泊まれるだろうし」

どうして、今日初めて会った人間にそこまでする気になったのかは自分でも分からない。
しかし、俺は何故か、ボストンバッグを指していた指を引っ込めるとジーンズの後ろポケットに
無造作に突っ込んでいたウォレットから3万円を取り出し、青年に差し出していた。






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