… 無に還るとき … 2






それは長野の森を四季を通して撮っている。
移り変わる光や影。
季節によって表情を変える草や花、鳥に動物達。
誰もが撮り尽した自然の風景は宮本がシャッターを切ることによって宮本独自の
色が加わり宮本の造り出す世界になる。

その世界は何処までも静けさだけが支配する。
自然なのにそこに息づく生命の賑やかさを感じない。
そして、そんな静寂だけが支配する空間の中で人間はほんの小さな一点にすぎない。


―空気で魅せるフォトグラファー―


宮本は業界でそう噂されていた。



























予定の時間を30分ほどオーバーしたが取材は思った以上の成果をあげて終わった。

「今日はありがとう」

「別に礼を言われることはしてないよ」

取材の片付けが終わった部屋で俺達はまだ、向かい合っていた。

「最後のページ、見たよ」

これだけで宮本には通じる筈だ。

「そうか」

「彼は元気か?」

深く紫煙を吸い苦い微笑を浮かべる。

「元気過ぎるくらいだ。今日も朝からケンカさ」

喧嘩と言いながらも宮本の表情は幸福そうだ。

「あの彼が?お前、何をしたんだ?」

まるで穏やかな春の雨を思わせるような彼が宮本と喧嘩をする姿が俺の頭では
想像出来なかった。

「最近、忙しくてゆっくり二人でいる時間が無くてがっついたんだ。
 朝まで寝かせなかった」

まるで言い訳のように言う。

「…お前、もしかして昨日寝てないのか?」

「当たり前だろ。久し振りに恋人との時間が出来たんだやることは
 一つしか無いだろ?」

当然といった口ぶりに俺は言葉を失った。

「……一睡もせずに取材か、何処にそんな体力があるんだ…」

「普段から鍛えてるからなぁ」

「なにで鍛えてるんだか…」

「そんなの決まってるだろ、セックスだ」

ニッと子供みたいな笑顔を浮かべる。
懐かしいその笑顔に俺は呆れながらも一緒に笑っていた。

まるで悪戯坊主がそのまま大人になったような笑顔。

昔、俺はコイツの情人の一人に尋ねたことがある。

「他の人間と関係を持たれて嫌じゃないのか?」と。

その俺の質問に情人は苦笑しながら答えた。

「子供の悪戯に怒れる?何をされてもあの笑顔をされると怒れなくなるの。
 だって、悪いことをしたなんて少しも思ってないのよ。浮気なんて彼に
 とっては悪戯なのよ」

彼女の答えが全てを物語っている。

無邪気な子供の悪戯には怒れない。

そんな悪戯に怒るこっちの方がおかしいのではないかとさえ思ってしまう。
宮本はそんな男だ。

そんな宮本が今は彼だけと一緒にいる。

都会の街を泳ぐように生きていた男は街を離れ長野で恋人と二人で暮らしている。
あれほど賑やかだった奴の艶聞はもう過去の話だ。

正直言って俺はコイツが彼一人で満足していることがあの写真集の最後のページを
見るまで信じられなかった。

そう、あの写真を見るまでは。










木々の間から降り注ぐ太陽の光を浴びた一人の青年の後ろ姿を写した一枚。

白い木綿のシャツにベージュのチノパン。
太陽の光のせいでシャツが透け、薄く青年の身体の輪郭が見える。
その後ろ姿は余りも無防備で優しくて、全てを受け入れ許してくれてるような気が
した。

慈悲という言葉を具現化したらこういうものになるのだろう、そう思わせる一枚。


神の存在を信じない男が撮った神の優しさを現した写真。


それが写真集『無に還るとき』の最後のページだった。


人間を撮らない宮本が撮った一人の青年の写真。
宮本が撮った人間の写真を見たいが為に写真集が売れている。
つまり、興味本位で売れているだけだと宮本を良く思わない一部の人間は言っている。
そして、そんな噂を耳にする度に俺は堪えきれずに吹き出しそうになる。
昔から宮本は他人に見せる為に写真を撮ったことなど無かった。
芸術をマスターベーションと表現するコイツにとって写真は撮ってる自分が気持ちいいか
どうかだけが問題でその写真を他人がどう評価するかはどうでもいいことだった。

この写真集はまさにそんな宮本の写真集だ。

『無に還るとき』がどんな意味を持つ写真集なのか誰も気付いていない。

そう、俺以外誰も気付いていない。























「しかし、やってくれるよな。『無に還るとき』か」

奴と同じように煙草に火を点け、紫煙を吸い込む。

「何がだ?」

とぼけた返事を俺に返しながらも宮本は悪戯が成功した時の子供のような目をしている。

「俺が気付いてないと思ってるのか?」

俺の問いに返ってきたのは自信たっぷりの微笑みだった。

「出版社利用して愛の告白か。前代未聞だな」

「お前の目は誤魔化せないな。どうだ、最高のラブレターだと思わないか?」

何処までも得意気な笑顔。

「…かっこ良すぎて呆れ果てるね。お前のラブレターの為にいくら動いたと
 思ってるんだ」

呆れ口調の俺にそれでも宮本は笑っていた。

写真集の最後のページを見た瞬間、俺はやられたと思った。
『無に還るとき』は宮本から彼へのラブレターだ。
売れるかどうかなんて全く関係無い。

ただ、彼に見せる為だけに作られた写真集。

だから初版も五千だけだった。
出版社を利用し、多額の金を動かして宮本が造り上げたのは恋人への個人的な
ラブレターだった。

それは最後の写真を見れば分かる。
無防備な優しさで全てを受け入れ包んでいるように感じるのは宮本がファインダーを
通して彼をそういう想いで見詰めていたからだろう。

写真なんてものは写す人間の想いがそのまま写るものだ。
その宮本の彼に対する想いの深さに強さに俺は涙を堪えるのに必死だった。

一度でも誰かを愛したことのある人間なら分かる。

それは切なくて優しくて苦しくて残酷だ。

自分の心のずっと奥に隠してある無防備な何かを突然、掴まれたようなそんな感覚を
起こさせる一枚。

神の存在を信じない男の撮った一枚の写真はどんな神の言葉よりも穏やかで暖かくて
その全てを包み込む深い包容力に俺は打ちのめされた。






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