… 無に還るとき … 3






何故、あの時、章を追いかけ無かったのだろう。

何故、あの時、章の手を離した。

何故、あの時……



思い出すたびに心を支配するのは後悔とこれでいいのだという言い訳だった。






















「編集部に顔は出さないのか?みんな、お前に会いたがってるぞ」

ホテルの部屋を後にし、ロビーを抜け、外に出る。
車が通り過ぎて行く大通りを前に久し振りに街に戻ってきた宮本を俺は職場に誘った。

「今度にするよ。今日は早く帰って純(じゅん)の機嫌を取らないといけないんでね」

楽しそうな笑顔。

「そうか…」

「じゃあ、行くよ。又な」

そう言って軽く右手を上げた後、俺に背を向けようとした宮本を俺は呼び止めていた。

「お前、今幸福か?」

宮本は不思議そうな顔をしたがすぐにニッと笑った。

「どんな奴にも等しく訪れるのはなんだと思う?」

奴の謎かけに俺は答えられ無かった。

「“死”だ。無に還るときだ」

幸福かと尋ねた俺に返ってきたのは全てを悟っているような笑顔だった。

「俺はバカだから“幸福”なんて難しいことは分からない。でも、死ぬ時に
 良かったって思える。そう確信してる」


自信に溢れた顔。
後悔のない言葉。


それらは全て今の俺には無いものばかりだった。

「あの時ああしておけば良かったなんて後悔するならあんなことしなければ
 良かったって思う方がマシだろ?」

「…お前…」

「答えはいつだってシンプルだ」

その言葉を残し宮本は恋人の待つ長野に帰って行った。




























『無に還るとき』の最後のページを開く。

このページには全ての答えがある。

誰かを愛するということの。



三年振りに再会した章に俺は微笑んだ。
微かな望みの種としてずるい台詞を吐いた。


「章を好きになって良かった」

「幸せに」


俺の左手の薬指に嵌められたプラチナは裏切りの証明なのに。

その卑怯さで手に入れたのは痛々しい章の笑顔だった。


年下の章が俺に追いつこうと必死だったのは分かっていた。
なのに俺は章を守ってやりたいと傲慢になっていた。
本当は弱い所だらけの自分を隠して。

俺はこんなにも弱くてずるいのに。

弱いからこそ章を求めたのに。


人は独りでは生きていけない。


宮本が聞いたら吹き出しそうな使い古された陳腐な言葉は俺にとっては真実のような気が
した。


人は独りでは生きていけない。


凡人の俺にはそれは弱い自分の為に神様が用意してくれたたった一つの言い訳のような
気がする。

独りで生きていけないのなら俺は誰と生きていきたいのか?

どうすれば『無に還るとき』これで良かったと思えるのか?


答えは『無に還るとき』の最後のページに有る。

全ては一枚の写真に。


その一枚を見た時、俺の左手のプラチナは急激に輝きを無くした。

明日、生きているという保証はない。
一時間後に生きているという保証もない。
だからこそ自分に正直になりたい。
時間はかかるかもしれない。
許してもらえないかもしれない。
拒絶されるかもしれない。

でも……



「お前、今幸福か?」



宮本に問うた言葉は本当は自分への問掛けだった。
それが分かったからこそ宮本は俺に答えた。
自分はバカだから“幸福”なんて難しいことは分からないと。

バカなのは俺の方だ。

こんな簡単なことに気付くのに三年掛った。

宮本、お前のお陰で気付けたよ。

『無に還るとき』で気付けた。

自分が本当に望んでいることは何か。

本当に一緒にいたいのは誰か。

それに向かう為には何をすべきか。


そっと、静かにそっと自分の左手で鈍い光を放つプラチナを厳かに外す。
俺がこれからしようとしていることはきっと大切な人達を傷付けるだろう。

でも…

俺の中に後悔はなかった。

誰も傷付けず人は幸福になれるのだろうか。

それは俺にも分からない。

だから…


「お前、今幸福か?」


いつか、その問いに答えを出す為の俺の戦いはこれから始まる。






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