… a memorial day … 前編






『ひっかき回すの止めてもらえませんか?』


窓という額縁の中に入っている、とうの昔に夕陽が落ちた街を背景に直人は、そう言った。
いかにも俺は敵といった、その威嚇は、まるで、仔猫が毛を精一杯、逆立てているようで、俺には
微笑ましかった。

あの、やりとりが今、思えば二人の始まりだったのかもしれない。

上に上がれば、上がるほど、周りにはイエスマンが増えていく。
本音で話が出来る人間がいない訳ではないが、何か物足りなさを感じている中、直人に出会った。
久し振りに向けられる真っ直ぐな敵意に俺はワクワクした。

恋愛はどこかビジネスに似ている。
リスクを最小限に押さえて、最大限の成果を得る。
緻密な計算のもと、相手に悟られないように相手より先にイニシアティブをとり、相手を自分の
思い通りに誘導する。
そんな思い通りの生活を送っていた俺にとって直人は、久し振りに現れた思い通りにならない
“事態”だった。

三十七年間で培った俺の価値観を直人は砕いた。

世の中の仕組みを悟り切っているかのようにクールかと思えば、水族館や、動物園で瞳を輝かせる。
哲学者のように人生の本質を探っているかと思えば、次の瞬間には、面倒臭いと今時の若者特有の
気だるげな笑顔を浮かべる。
そんな、掴み所のない雲のような直人に気が付けば、イニシアティブを握られていた。
そして、俺の価値観を壊した直人は今、俺の腕の中にいる。














「…ん…」

深いキスに軽く身を捩ると直人は俺から唇を離した。

「シャワーを先に使うかい?」

映画を観て、ショッピングをして、ディナーを食べて。
ごく普通のデートをした俺達は当たり前にホテルにいた。
そして、このシティホテルは直人のお気に入りの場所だ。
基本的に直人は、贅沢に興味がない。
好きだとか嫌いではなく、興味がない。
与えられるモノは受けるが自分から要求することはない。
そんな直人が唯一、自分から求める贅沢がここに泊まることだ。

「シャワーか…一緒に入る?」

俺の問掛けに直人は軽く微笑む。
本人は意識していないだろうが、その微笑みには自分の誘いを断る人間はいないだろうという自信が
滲んでいる。

生まれながらの娼婦。

直人は女ではないが、まさにその言葉が似合う。
しかも、本人にその自覚はない。

「今日は機嫌がいいんだね」

「そう?」

俺の切り返しを直人は受け流す。

「一緒に入るでしょ?」

そして、バスルームに向かう。
あっさりとバスルームに向かう背中を俺は追い掛ける。
辿り着いたバスルームでは、既に直人がシャツを脱ぎ始めていた。


























湯気がたちこめたバスルームの中、俺の体と自分の体をボディソープの泡で一杯にして直人は、
はしゃいでいた。

「ケーキみたくない?」

生クリームのようなボディソープの泡を手に集め、直人は笑う。
それに笑い返すと直人は俺の胸に手を滑らせてきた。

「相変わらず鍛えられた体だね」

さっきまで子供のような笑顔を浮かべていたのに。
意味有りげに俺の胸を撫でる直人の顔には艶が浮かんでいる。

「若い恋人に愛想をつかされたくはないからね」

「とかなんとか言って、ホントはモテたいだけなんじゃないの?」

「直人以外にモテたって仕方がないよ」

「ふーん」

上機嫌だと思っていた。
さっきまでは。
なのに、艶を浮かべている直人の顔には微かに苛立ちが含まれている、ような気がした。

「ねぇ、シャワー。泡、流して」

言われるままにシャワーで二人の体を包む生クリームのような泡を流す。
シャワーを浴びながら直人は俺の体にぴたりと自分の体を寄せてきた。

「ねぇ、キスしよ」

俺の首に腕を回し、背伸びをする。
若い恋人の願いに唇を重ねると、俺の想像を越える深くて官能的なキスが返ってきた。


























何か直人の機嫌を損ねるようなことをしたのだろうか。
散々、考えたが、何も思い付くことはなかった。

灯りの消えたホテルの中は大きな窓から差し込む街の灯りのせいでまるで夜の空に浮かんでいるようだ。
そして、直人は素肌にバスローブだけを羽織り、窓の向こうを眺めている。

「髪を乾かさないと風邪をひくよ」

表情の見えない直人の背中に不安に駆られながら俺は夜景に向けられ配置されたソファーに座る。
直人より十三年も長く生きてるくせに直人に振り向いてもらう為に掛けた言葉は情けないくらい無様だ。

「なんで?これから熱くなるのに?」

振り向いた直人の表情は街の灯りで逆光になっていて微かにしか見えない。

「ねぇ…」

しかし、直人の声は濡れていた。

「ここで、しよう…」

濡れた声が近付き、俺の目にはバスローブの紐を解く直人の指が見える。

「…ベッドに行こう」

いつもとは違うプレイが嫌なわけじゃない。
ただ、ここは余りにも窓が近くて。
外から部屋の中が見られそうで。

「なんで?…ここで、したい…」

なのに、俺の言葉を無視し、直人はバスローブの前を開き、俺の太股の上に跨ってきた。

「直人…」

困るのは、直人が我が儘だからじゃない。
直人の誘惑に抗えそうにない自分がいるからだ。

「…ベッドに行こう」

肩から落ちたバスローブを直人の肩に掛けなおす。
そんな俺に直人は苦笑を洩らした。

「そんなに俺とこんなことしてるのを人に見られるのは困る?」

窓の前で俺を誘ったのは、俺を試す為だったと直人の言葉が俺に教える。

違う。

直人は何も分かっていない。

「…それは違うよ」

そう、それは違う。

「違う?」

そんな杞憂はいらない。
微かにもいらない。

「直人は思い違いをしてるよ」

それが本当なら、俺は幸せだ。

「思い違い?」

何故なら、恋は惚れた者の負けだから。
恋愛はイニシアティブを握った者の勝ちだから。

「あぁ、思い違いだ」

「何が…?」

人に知られるのが嫌だと考えられるくらいの冷静さを残しているなら俺はこの恋愛において勝者だ。
しかし、この恋愛において俺は完全な敗者だった。

「直人は何も分かってない」

俺の苦笑に直人は口を尖らす。
その直人の首を手で撫でる。

「見られるのが嫌なんじゃない。僕の直人を誰にも見せたくないんだ」

俺の告白に直人は俺を見つめる。

「僕はね、嫉妬深いんだよ、直人に関してはね。特にこんな直人は誰にも見せたくない」

俺だけに、全て俺だけのモノで。
誰にも見せはしない。
俺の持っているモノ全てで、直人を繋ぎ止める。

「相変わらず、口がウマイんだね」

嘘吐きだと言いながら目は信じたいと言っている。

「世の中の全てに誓うよ。直人だけだ」

「…バカじゃないの」

「あぁ、ただ馬鹿な一人の男だよ。直人の前ではね」

「…ウソつき」

真っ直ぐな黒い大きな瞳には俺だけが映っている。
その大きな瞳に捕まって囚われて、奪われて。

そして…今

恋人の黒い大きな瞳は俺との口づけの為に閉じられた。






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