… 最後の恋 … 1






腕の時計が示す時刻に俺は眉を顰めた。


「久し振りに二人で飲まないか」


家庭を持ってからは滅多にない佐藤の誘いに俺は笑顔で頷いた。
店は決まっている。
佐藤が独身の時に二人で良く行ったショットバー『カザルス』。
其所は昔から俺のお気に入りの店で其所を佐藤に教えたのは俺だ。
案の定、初めて訪れた日に佐藤も『カザルス』のファンになった。
それから、二人で飲みに行くとなったら其所にばかり行くようになった。




















待ち合わせの時間から三十分ばかり遅れ、『カザルス』のドアを開ける。
佐藤はカウンターの一番左端で俺を待っていた。

「悪いな、待たせて」

軽く詫び、佐藤の右側に腰を下ろす。

「別にいいさ、先にやってたから」

佐藤は苦笑しながら飲みかけのグラスを持ち上げ、かざしてみせる。
持ち上げられたグラスの中ではカランという氷の音と共に濃い黄金色の液体が
揺れていた。

「いらっしゃいませ」

微笑んで俺を迎える玲に「どうも」と返す。

「オーダーは何になさいますか?」

オーダーを尋ねる玲に俺は佐藤のグラスを眺めた。

「同じ物を」

「何か分かってるのか?」

佐藤は笑みを浮かべている。

「ラフロイグ、だろ?」

「だな」

俺達は互いに顔を見合わせ苦笑した。



「お疲れ」

「そっちもな」

お互いに労いの言葉を口にし軽くグラスを合わせる。
久し振りに飲んだラフロイグは独特の海を思わせる味を舌の上に残しながら
俺の喉を流れていく。

至福の時だと思う。

「お前とこうやって飲むのも久し振りだな」

「誰かさんは家庭、第一だからな」

なんてことは無い会話を交しながら気心の知れた友人と美味しい酒を飲む。
それは俺にとって一つの安らぎだ。
しかし、今日、俺達の間にはそんな安らぎとは違う微妙な空気が流れていた。
互いにその違和感に気付きながらもそれに気付かない振りをしながらなんてことは
無い会話を続ける。
互いの様子を窺うようなそんなもどかしい雰囲気が続くなか、どちらも触れない核心に
先に口火を切ったのは佐藤だった。

「…実は今日、お前を誘ったのはお前に話があってさ」

少し気まずそうな佐藤の横顔を俺は眺めた。

「…あぁ」

分かってる。

本当なら俺から佐藤を誘い、報告しなければならなかった。
しかし、やっと手に入れた直との幸福に俺は溺れ、避けては通れない現実を遠ざけていた。

そう、避けては通れない現実の洗礼に今、俺は向き合っている。


「…その…なんて言うか、直のことなんだが」

佐藤は次の言葉を言いよどんでいる。

「…済まない。それしか言えない」

視線を正面に戻す。

「…直は男だぞ」

少しの沈黙のあと呟かれた言葉。
それは決して責める口調ではなかった。

「分かってる…」

俺の返事に佐藤は頭を軽く掻いている。

「そんなことは関係なく、直が好きなんだ。どうしようもなく大切で止められない」

止められない…

誰に何を言われても只、直が大切で愛おしくて止められない。

「…」

佐藤は何も言わないで俺の話を聞いている。

「…覚悟は出来てる。今日だってお前に殴られるくらいの覚悟はしてきた」

佐藤にとって直は弟のような存在だった。
俺とは違う意味で直は佐藤にとっても大切な存在だった筈だ。
そんな大切な直が選んだ相手が男の俺だったのだから殴りたい気持ちぐらいには
なるだろ。

「…直が俺を好きだったことは薄々、知ってたよ。…でも、それは若い時に
 ありがちな気の迷いっていうか、錯覚みたいなものだと思っていた」

グラスを揺らしながら佐藤が言葉を続ける。

「…先週、直が一人で家に来た。お前のことが好きだって、誰に
 認められなくてもお前が好きだって。お前がいれば何も要らないそうだ」

苦笑しながらの佐藤の言葉は俺に驚きと同時に最上の喜びを与えた。

「…だが…」

佐藤が何を言おうとしているのかは分かる。
きっと、それは若さゆえの言葉だろう。
好きな相手がいれば何も要らないなんて、そんなことは若いからこそ言える台詞だ。

「…分かってる。直はまだ若い、もし…」

言葉を切った俺を佐藤は見詰めている。

「もし、これから先、直が普通の恋愛をして俺は要らないと言うなら俺は
 直の前から消えるよ」

「…お前はそれに耐えられるのか?」

俺を気遣う佐藤に俺は微笑んで見せた。

「…どうだろうな」

分からない。

だが、それで直が幸福になるのならそれでいい。
直の幸福の為なら俺が出来ることなら何でもしてやりたいと思う。
だから、俺が消えることを直が望むのなら俺は直の前から消える。

独りで直への想いを抱えながら生きていく。


何故なら俺にとってこれは最後の恋だから―


「…正直、困惑したよ。直は男でお前も男で」

佐藤はそう言うと煙草を取り出し口に銜えた。
ライターを探し始めた佐藤にジッポを開け火を向けてやる。

「悪い」

詫びる言葉の後に佐藤は深く吸い込んだ煙を吐き出した。

「…真奈美に怒られたよ、何故、お前達を認めてやらないんだって」

遠くを見詰めるような目をする佐藤に俺はラフロイグを一口、口に含んだ。

「私は男の貴方を好きになったんじゃなくて貴方だから、好きになったのよ。
 貴方という人を好きになったのよ。って言われたよ」

紫煙の向こうでは佐藤が苦笑を浮かべている。

「因みにお前達を認めないと俺達は離婚だそうだ」

相変わらずの彼女の大胆さには敵わない。
頭が上がらない。

俺は取り出した自分の煙草に火を点けた。

「…ありがとう」

「礼なんてお前が言う必要はない。俺は真奈美と別れるのが嫌だからお前達を
 認めるんだから、礼なんて言うな」

きっと煙草の煙のせいだ。

煙草の煙が目に染みて視界が霞んでいる。

「…お前はいい奴だ。俺が一番、知ってる。
 …だから、俺に余計な気なんて使うな」

「…あぁ」

「と、いう訳で今日はお前の奢りだ、ガンガン飲むぞ」

まるで何事もなかったかのような佐藤の笑顔に釣られて笑う。

幸福だと思う。

大切な直がいて、大切な佐藤がいて、大切な真奈美さんがいて、俺は大切な人達に
囲まれてなんてことは無い日常を何の変わりもなくこれからも過ごしていける。
それはとても当たり前なことだがとても大切なことで俺はその当たり前な幸福を
愛おしむように佐藤との時間を楽しんだ。






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