… emergency call … 5






人を殴ったのも殴られたのも久し振りだった。

ガキの時にはそれなりにケンカもした。
大抵は詰らないことがきっかけで、些細なことから始まる青さ故の小競り合いは
持て余してる若さの分だけ暴走する。

ただただ、エネルギーと何かに突き動かされる衝動だけで過ごしていた。

だけど、今は違う。
社会に出て、自分の力じゃどうにもならないこともあるんだと悟って、上手く人の
流れに乗れるようになって、大人になった、と思っていたのに。

説得なんて悠長なことをしてる場合じゃない。
千裕から関口を遠ざけなければ。
そんな衝動に俺は青臭いガキの頃の自分に戻っていた。

すぐにでも千裕に会わなければ、心は焦ったがさすがに関口に殴られて少し腫れた頬の
顔で千裕に会う訳にはいかなかった。

頬の腫れは二日で引いたが俺にはその二日がひと月に感じるくらい長かった。
頬の腫れは引いたがまだ少し殴られた痕跡は残っている。
しかし、その二日が俺には限界だった。
これくらいの痕跡なら誤魔化せる。
それに今日は金曜日で明日は休日だ。
千裕ともゆっくり話が出来る。
自分にそう言い聞かせて俺は予備校に行っている千裕を迎えに千裕の予備校まで車を
走らせた。



































久し振りに迎えに来た俺に千裕は極上の笑顔を浮かべた。

「今日はどうしたの?洋平が迎えに来るなんて久し振りだね」

千裕は助手席ではしゃいでいる。

「俺、お腹空いた。ご飯食べたい」

「何が食いたいんだ?リクエストは?」

「イタリアン!」

千裕のリクエストに俺の頭に浮かんだのは予備校の近くに最近オープンしたイタリアンの
店だった。
何かの雑誌で取り上げられて徐々に人気が出てるらしい。
事務所の女の子が食べに行って美味しかったと言っていた。

「女の子は絶対喜びますよ。お店の雰囲気も良かったし、料理も美味しかったし」

彼女の評価に機会が出来たら使おうと思っていた。
千裕は女の子じゃないが料理が美味いなら喜ぶだろう。

「よし、イタリアンだな」

「うん!」

嬉しそうな笑顔と返事に俺は車をイタリアンの店に向けて走らせた。






































千裕の運がいいのか、それとも俺の運がいいのか。
目的のイタリアンの店は休日前にも関わらず大して待つこともなく入れた。
オーダーした物はどれも外れがなかった。
千裕はオーダーした料理をどれも美味しいと言って嬉しそうに食べていた。
デザートは二つも食べた。
オーダーしたデザートよりも甘そうな笑顔を浮かべ、無邪気に喜んでいる千裕に俺の
胸には罪悪感が芽生えた。

こんなことくらいでこんなに喜ぶなら、もっと相手をしてやれば良かった。
確かに仕事は忙しかったが俺はそれを言い訳にして千裕の相手をしていなかった。
きっと寂しかったはずだ。

寂しかったから、関口の優しさに気を許したんだ。
だからキスなんてしたんだ。


「千裕、空港に連れてってやろうか?」

食事が終わり、車に乗り込んで車のエンジンをかけながら言った俺の申し出に千裕は
驚いた顔をした。

「…いいの?」

「あぁ」

「本当に?!」

驚いた顔が瞬時に満面の笑みに変わる。

その笑顔は俺が昔から知ってる天使の笑顔で俺はその笑顔に関口とのことはやはり、
寂しさからの過ちだと自分を信じ込ませた。

イタリアンでもフレンチでも。
空港でも海でも。

千裕が望むことなら全て俺が、この俺が叶えてやる。
関口なんかには触れさせない。

そんなことを考えながらハンドルを操る俺はそんな考えこそが傲慢で自分勝手な
思い込みだということに気付いていなかった。






































空港の夜景にも千裕ははしゃいだ。

綺麗だと何回も呟いて嬉しそうに楽しそうに極上の天使の笑顔を惜し気もなく俺に向けた。

離れた所にある空港や飛行機の光はどれも綺麗で暗い車内でそれらを静かに眺めている
千裕の横顔に俺はいつの間にか見惚れていた。

車の中を流れている曲は丁度、俺の好きなスティングのムーンライトバーボンストリート
だった。

千裕の天使のような笑顔と深夜の暗闇を思わせる音楽。
その相入れない二つは相入れないからこそに互いを引き立てあって儚い夢みたいだった。
その現実味のなさに急に千裕がどこかに行ってしまうような気がして俺は怖くなった。
十六年間、千裕と一緒にいてこんな気持ちになったのは初めてだった。

これまでのように千裕の側にいて千裕を守ってやりたい。
千裕の願いを叶えてやりたい。

それは俺の我が侭なんだろうか。

いつか、千裕はこの天使のような笑顔を俺以外の人間に向けるのだろうか。
俺以外の人間に我が侭を言う日が来るのだろうか。

とめどなく溢れ出して来た考えは全てが俺にとっては受け入れ難いものばかりだった。

突然、穏やかだった水面に一つの関口という名の石が投げ込まれて水面がざわめき出し、
波紋が広がっていく。

広がり始めた波紋は何処まで大きくなっていくのか俺には分からなくて。
自分では止められない波紋が俺は怖くて千裕の手を握った。


「なに?」

不意に手を掴まれ千裕が夜景に向けていた瞳を俺に向ける。

「…いや…なんでもない」

俺は握った手を離した。

「ヘンなの」

怯えている自分を千裕に悟られたくなくて俺は無理に微笑んだ。
千裕は不思議そうに俺を見ている。

この瞳が俺を見ない日がいつか来る。

俺を見ない日が…

いつか…

俺以外の人間を見る日が。

それは俺にとって、恐怖以外の何者でもなくて。
俺は初めて千裕がいなくなることが俺にとって恐怖だということを思い知った。






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