… emergency call … 3






「俺、砂糖の入ってないコーヒーって言ったじゃん!」

だからそれはブラックって言うんだって。

案の定、車に戻った俺を待っていたのは千裕の非難の言葉だった。
それを無視して自分用のブラックコーヒーのプルトップを上げる。
そして、俺は缶コーヒーを一口、飲んだ。

「コーヒー!」

コーヒーを飲む俺の横で千裕は怒鳴っている。
飲ませてやれば納得するだろう。

「ほら」

そう思って、俺は自分の飲んだコーヒーの缶を千裕の前に差し出した。

「…え…?」

「飲みたいんだろ?コーヒー」

さっきまで怒鳴っていたのに。
手渡された缶を持ったまま、千裕は戸惑うようにそれを見つめている。

「飲まないのか?」

「…だって…」

あんなに騒いでいたくせに。

「どうした?ん?」

手に持ったコーヒーを見つめたまま千裕は一向にそれを飲む気配をみせない。

やはり、コーヒーを二つ買って来なくて良かった。
そう思いながら、ミルクティーの缶を開けてやろうと俺はドリンクホルダーのミルクティーに
手を伸ばした。

「……洋平が飲んだのに…」


は…?


「お前なぁ、どういう意味だよ。俺の後は飲めないのか?」

「…そうじゃないけど」

溜め息混じりの俺の言葉に千裕は困ったように返す。

「お前、もしかして間接キスとか思って照れてんのか?」

戸惑うような表情の千裕に俺は冗談のつもりでそう言った。

「ち、違うよ!」

その俺の冗談を慌てて否定する姿に冗談が当たったことを悟った俺は自然と笑みを洩らしていた。

何を意識してるんだか。
小さい頃はよく一つのジュースを飲んだのに。


「ふーん」

「違うって言っただろ!」

千裕の慌て振りは可愛らしい容姿と相まって本当に可愛かった。

「何なら、口移しで飲ませてやろうか?」

だから、その可愛さにつられ俺はそう言っていた。
なのに、俺のそのなんてことはない悪ふざけに千裕は真っ赤になって固まっている。

こんな初歩の言葉遊びさえ、ろくに返せない。
どれだけ背伸びをしようとまだまだ子供だ。

そして、そんな初歩的な駆け引きの言葉遊びも出来ない千裕に俺は何故か安堵していた。

千裕はこれでいい。
こんなやり取りは千裕にはまだ早い。

「冗談だよ。安心しろ、ファーストキスもまだのお子ちゃまに手は出さないよ」

俺は笑いながら車のシートに凭れ、スーツの胸ポケットから取り出したタバコを口に銜え、
それに火を点けた。

どうせ又、もう、子供じゃないとか何とか煩く言われるんだろう。
怒らせることを分かりながらもつい、千裕をからかってしまうのは俺の悪い癖だ。
すぐにムキになってつっかかってくるはずだ。

しかし、そう思って待つ俺に千裕の非難の言葉は一向に聞こえて来なかった。

…ヤバいな、本気で怒らせたか?

余りの車内の沈黙の長さに俺は少し焦り始めた。

「…千裕?」

千裕の機嫌を窺うように千裕の名前を呼び、そっと千裕の表情を見る。
しかし、怒ってるはずだと思った千裕の顔は怒ってはいなかった。

「……キスぐらいしたことあるよ」


え…?


真っ直ぐ前を向いたままの千裕は真面目な顔でそう言った。


「…は…?」


千裕は今、なんて言った?


「キス、したことあるよ」


千裕は顔を俺に向けてもう一回、繰り返した。
そして、二回目で俺はようやく、その言葉の意味が分かった。

「……」

しかし、意味が分かったところで千裕に返す言葉はすぐに出て来なかった。

「…冗談、だろ?」


――そうだ

俺がからかったもんだから悔しくてつい、言ってしまった。
キスぐらいしたことあると。
そうに決まってる。

そんなことより、俺は何をこんなに動揺してるんだ?


「からかって悪かったよ。キスぐらいしたことあるんだよな、はいはい」

悔し紛れにすぐばれる嘘を言う。
やはり、まだまだ子供だ。


「嘘じゃないよ」

しかし、千裕の声は冷静でその声は嘘を言っている声ではなかった。

「ガールフレンドでも出来たのか?」

吸ってもいないのにタバコはどんどん短くなっていく。

相手を聞いてどうするんだ?
何を動揺してるんだ?


「違う」

「じゃあ、誰とだ?」

俺の声は動揺を隠し切れなかった。

何をムキになってるんだ。
たかがキスじゃないか。
それに千裕は今、一番そういうことに興味を持つ年齢だ。

興味本位のキスぐらい…


「誰だ?」

動揺しながらも努めて俺は冷静を装った。
千裕はなかなか、答えない。

ガールフレンドじゃなきゃ誰だ。
ほらみろ、答えられない。
やはり、悔し紛れの嘘だ。

そう安心しかけた時だった。


「関口さん」


関口…


千裕の口から出た名前は更に俺を驚かせた。

関口は俺の大学時代からの友人だ。
千裕が関口と会ったのは一年前で関口が俺の家に遊びに来ていて千裕がCDを返しに来た時だ。
関口は大学時代から自分のことを男も女も愛せる博愛主義者だと親しい連中には公言していて、
実際、アイツは男も女も見境なく付き合っては飽きたという理由で簡単に別れていた。

根は悪い奴じゃない。
実際、アイツの恋愛に対する自由さは俺にも通じるところがあって、俺達は今だに親しく
付き合っている。

しかし、なんでアイツなんだ。
アイツが初めて千裕と会った時、千裕に興味を示したアイツに俺は釘をさした筈だ。

『千裕は俺の弟みたいなもんだから手を出すなよ』と…

だから、訊かれたがアイツに千裕の携帯の番号は教えていない。

なのに、どうやって。


「…なんで、関口なんだ?」

「予備校の帰りに偶然会った。俺の予備校と関口さんの会社って近いんだって。
 それで、その日ご飯、奢ってもらった」

食事を奢ってもらって、その時に携帯の番号を交換した。
と千裕は言った。

「いつでも電話してきていいって言われたから」

「電話してきていいって言われたらお前は誰にでも電話するのか?」

悪気なく話す千裕に俺は深い溜め息をついた。

コイツは何もわかっちゃいない。
関口は悪いヤツじゃない。
しかし、恋愛対象となると別だ。


「なんで?関口さん、いい人だよ。ご飯、奢ってくれるし、この前なんて空港
 連れてってくれたし」

「お前は飯奢って貰えて、空港連れて行って貰えたらキスさせるのか?」


頭が痛くなってきた…

何を考えてるんだ、コイツは。
それとも、何も考えてないのか。


「洋平が忙しくて遊んでくれないからだろ。洋平が遊んでくれない時、関口さんは
 遊んでくれた。関口さんは洋平なんかより、ずっと優しいんだから!」

それだけを言うと千裕はプイと顔を夜景に戻した。
もう、これ以上は何を言われても聞かない、という拒絶のオーラを全身で発している。
こうなると何を言っても無駄なことは俺が一番知っている。
千裕は天使のような柔らかい容貌なくせに意固地なところがある。
一旦、意地になると誰も千裕を宥られない。

そんな意地になっている千裕の様子を眺めながら深い溜息をつく。
今、「下心があるから優しいんだ」なんてことを言おうもんなら余計意地になるに決まってる。

どうすればいいか分からない。

そして、何故、自分がここまで動揺してるのかも分からない。

脳がショートしそうな混乱の中で俺はその混乱を少しでも和らげようと二本目のタバコに火を
点けた。






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