… DOLCE VITE … 9










「……悪かった」

後悔したような顔をして宅見は唇が離れた後、そう言って俺から視線を外した。

「…俺、帰るから…」

その宅見の様子に俺はそう呟いてタクシーを降りた。
タクシーのドアが閉まっても宅見は俺の方を見ようともしなかった。

タクシーを降りたその場に立ち尽くしたまま俺は宅見を乗せたタクシーが走り出すのを
見つめていた。


どうして、あんな顔を

あんな後悔したような顔を

あんなキスをしたくせに。

縋りつくようなキスをしたくせに。


あんな後悔したような顔をするくらいならキスなんてして欲しくなかった。

あんなキス、して欲しくなかった。


自分の意識しないところで微かな痛みが胸に走った。

その夜、俺はその微かな胸の痛みが何を意味するのか分からないまま走り去っていく
タクシーの後ろ姿をタクシーが見えなくなるまで見つめていた。






























宅見とキスをしたあの夜からひと月が過ぎていた。

康彦さんの様子は相変わらずで。
誰にも気付かれないように時々、疲れを滲ませた表情を見せることがあった。

それなのに。

康彦さんと事務所が大変な時なのに。

あの夜から俺は時々、宅見のことを思い出していた。

当たり前のことだけどあの夜から俺達は一度も会っていない。
宅見は俺の携帯の番号を知らない。
俺も宅見の番号を知らない。
俺と宅見は康彦さんを介してか宅見が事務所に連絡を入れてくることでしか会えない。

そんなことを考えているせいか事務所の電話が鳴る度に俺はもしかしたら、という思いを
抱くようになった。

俺は何を考えているんだ。
もし、宅見から電話があったら?
電話があったら俺はどうするつもりだ?

いくら考えても答えは出なかった。































いつもとなんの変わりもない平日の夜だった。
時間は九時を過ぎていた。

いつものように残業をして、自分のマンションに帰って部屋の電気をつけた時に俺の
携帯が振るえた。

そんなことはあるはずないのに。
微かな期待が俺の胸に広がった。

慌てて携帯を取り出して光るディスプレイを確かめる。
しかし、期待は期待で終わった。

やはり、そんなことはありえない。

慌てて取り出して確かめた携帯のディスプレイには昼から大切な約束があるから今日は
事務所に戻れないと言って事務所を出ていった康彦さんの名前が浮かんでいた。


『話があるんだけど智春のマンションに行っていいかな?それとも外で
 待ち合わせる方がいいかな?』


話があると言う康彦さんを断る理由なんてなかった。
だから俺はマンションで待っていると答えた。
もしかしたら事務所の話かもしれない。
宅見に全てを聞いたことを俺は康彦さんに言っていない。
康彦さんが俺や事務所の人達に心配を掛けまいと黙っているのにそれを暴く権利は俺には
ない。
だから康彦さんが話してくれるまで俺は待つつもりだった。
結果がいいにしろ悪いにしろ康彦さんの中で心の整理がついたら必ず話してくれるはずだと
信じて。





























マンションに現れた康彦さんの表情は明るかった。

康彦さんを待つ間に夕食はマンションに帰る途中でコンビニで買った弁当で済ませた。
康彦さんを部屋に招き入れ、俺はカップに注いだコーヒーをテーブルに置いた。

「智春は僕の様子がおかしいことに気付いてくれていたんだよね?」

康彦さんの問掛けに俺は頷いた。

「だから、あの日、飲みに誘ってくれたんだろう?」

「…うん」

「心配を掛けてしまって、ごめん。でも、もう大丈夫だから。全てうまくいったんだ」

全てうまくいった。

そう言って康彦さんは微笑んだ。
それから康彦さんはユズキベンディングの件を話し出した。
未納の支払いのことに知り合いに融資を受けられそうな銀行を紹介してもらったこと。
そして、今日、やっとその銀行で融資を受けられるようになったことなど。

久し振りに曇りのない柔和な微笑みを浮かべる康彦さんに俺は心の底から安心した。
しかし、安心する気持ちと裏腹に俺の中には康彦さんに対する微かな不満も浮かんでいた。

これは俺の我が侭かもしれない。
でも、一言、相談して欲しかった。

俺では頼り無いかもしれないけど事務所の将来がかかってる大事なことだからこそ独りで
抱え込んで欲しくなかった。
それにどうして、その知り合いが宅見だということを話してくれないんだろう。
銀行で融資が下りるということは宅見が保証人になったということなのに。


「こんな大切なことを今まで黙ってて悪かった。智春や皆に心配を掛けたくなかったんだ。
 でも、もう大丈夫だから」


宅見は康彦さんの保証人になった。
どうして保証人になる気になったのか。
一番、聞きたいことを胸にしまったまま、俺は康彦さんの笑顔を見ていた。






























一時間くらい話をして康彦さんは「もう遅いからそろそろ、帰るよ」と言って立ち上がり
玄関に向かった。

俺のマンションはワンルームだから玄関までの距離は短い。
その短い距離を俺は康彦さんの背中を見ながら康彦さんを見送る為に一緒に玄関に向かった。
玄関先で康彦さんが靴を履き、振り返る。
康彦さんは相変わらず柔和な微笑みを浮かべていた。

「ずっと、この問題が上手くいったら言おうと思っていたんだ」

宅見とは違う全てを包み込むような暖かい笑顔を俺は見つめた。

「僕とやり直して欲しい。今回のことでよく分かったんだ。僕には智春が必要なんだって」

「…でも」

突然のことに俺は戸惑った。

「智春が側にいてくれたから救われた。智春がいてくれなかったらとうに僕は駄目に
 なっていたかもしれない」

「…俺は何もしてないよ」


俺は何もしていない。
一緒に悩むことすらしていない。


「側にいてくれるだけでいいんだ。智春が側にいてくれるだけで充分だから」


側にいるだけでいい…?

どこまでも康彦さんらしい優しい告白だった。


「…俺…」

なのに、何かが違うような気がした。

「返事は急がないよ。ゆっくり考えてくれていいから。僕はいつまでも待つから」

優しい言葉が俺を包んで優しい康彦さんの右手が俺の頬に触れた。

「待つと言ったばかりなのになんだけど、おやすみのキスをしてもいいかな?」


断る理由なんて思い浮かばなかった。

近付いてくる康彦さんの顔に目を閉じる。
康彦さんのキスは穏やかで優しくて。
懐かしかった。

まるで全てを包み込むような穏やかで優しいキス。

しかし、そんなキスを受けながら俺はあの夜の宅見との胸が切なさで満たされたキスを
思い出していた。




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