… DOLCE VITE … 10










あんなことがあったのに。

やはり、康彦さんは大人だった。
事務所の危機なんかなかったかのように微笑んでいつもと変わらず仕事をこなしながら
皆の負担にならないように皆に細やかな気を配る。

大人で優しい康彦さんは俺が距離を置きたいと言った時にも

『智春がそうしたいならそうしよう』

と俺の罪悪感を少しでも軽くしようと優しく微笑んで俺の気持ちを尊重してくれた。

そんな大人で優しくて文句の付け所のない康彦さんにやり直して欲しいと求められたのに。
どうして俺はあの時、すぐに頷けなかったんだろう。

いくら考えても答えは出なくて。

答えの代わりに俺の頭に浮かぶのは深い夜の色を湛えた宅見の瞳と縋りつくような宅見の
キスばかりで。

まるで足場の悪い所に立っているような居心地の悪さを感じながら俺は一日を過ごした。




























事務所を出た時間はいつもと変わらなかった。
いつもと同じように仕事帰りの人達に紛れ電車に揺られて自分のマンションがある駅で
降りる。
何もかもがいつも通りの筈だった。

そう駅の改札を通ったまでは…

定期を朝と同じように改札に通し、改札を出て、駅の階段を降りようと一歩踏み出した時
だった。

なんてことはない普通のどこにでもあるような駅の階段の下で深いグレイの色をした
細身のダブルのスーツを着た男は、まるで映画のワンシーンから抜け出たようだった。
線が細い日本人には着こなしにくいダブルのスーツをまるで自分の身体の一部のように
さりげなく着こなしている一人の男に俺の視線は釘付けになった。


どうして、ここに?


階段を降りる女性達、いや、男性までもが横目に男を盗み見ては男の横を通り過ぎて
振り返っている。


どうして、こんな所に。


余りの驚きに階段に踏み出そうとした足を俺は止めてしまった。
目はその男に釘付けになったままだった。


どうして…


俺の視線に気付いて男が俯いていた顔を上げ、自分に向けられているあからさまな
視線の出所を探すように階段の上に視線を向ける。

全ての出来事がまるでスローモーションみたいだった。

俺と男の視線がかち合う。
自分に向けられた視線の出所が俺だと分かった男は野生的な顔立ちのせいでともすれば
強面に見える顔に苦笑いを浮かべた。


「やぁ、偶然だな」

ひと月振りに見る顔とひと月振りに聞く低い声。
それは忘れようとしても忘れられない、宅見という男の顔と声だった。


















殊更に階段をゆっくり降りたのは急いで階段を降りてまるで宅見と会えるのを心待ちに
していたみたいに思われるのが嫌だという俺の詰まらない意地からだった。

ゆっくりと階段を降りる俺を宅見は階段の下で迎えに来ようという動きもせず楽しむように
眺めていた。

俺を見上げていた宅見の視線が階段を一段、降りるごとに位置を変え、最後の一段を降りた
時には俺を見下ろしていた。

「何が偶然だよ。あんた、こんな所で何やってんだよ」

突然、目の前に現れた宅見にどうすればいいか分からなくて、口調はつっけんどんなものに
なってしまった。

「俺には手厳しいんだな。芳賀にはあんなに優しいのに」

相変わらずの意味深な笑顔と俺を挑発するような言葉に何故か心は落ち着いた。

「この前送った時に君がタクシーを降りた場所から君の利用してる駅を予想して
 みたんだ」

俺はどうして、何を思ってここに来たのかを尋ねたのに。
そんな俺の問いへの宅見の答えはどうしてここが分かったのかに対する答えで。
俺は、はぐらかされたような気がした。
しかし、それが故意なのかどうかは分からない。

「駅を予想って、あんたストーカーかよ」

「ストーカーかもしれないな」

宅見のペースになるのがしゃくで冷静を保ちながら呆れた風を装って言った俺に宅見は
微かに笑った。

はぐらかされたのかもしれないと少し苛立っていたのに。

あぁ、この笑顔を見たかったのかもしれない。
黙っていると鋭くみえる瞳がすっと細くなって野生的な顔立ちの目尻に笑い皺を作る。
その目尻の皺を見た瞬間、そう思った。

何を思ってここに来たのか、どうしてタイミング良く会えたのか。
さっきまで考えていたこと全てがどうでもいいような気がした。

それよりももっと聞きたいことがたくさんあった。
どうして康彦さんの保証人になったのか。
どうしてあんなキスをしたのか。

「…あんた、晩飯は?」

「…いや、まだだ」

俺の言葉に宅見は少し驚いた顔をした。
宅見を少しでも驚かせることが出来た。
そんな些細な詰まらないことが何故か俺を満足させた。

「この前は奢ってもらったから。今日は俺が奢るよ」

何でもないことのように言った。

「…それは夕食の誘いと受け取っていいのか?」

「別に嫌ならいいよ」

まるで子供のような笑顔を浮かべた宅見に戸惑ったのは俺の方だった。

「嫌な訳がない。君に誘って貰えなくても俺が誘うつもりだった」


なんで、そんなに嬉しそうなんだ。

目尻に皺を刻み付けたままの宅見は本当に子供みたいだった。

「そんなに期待されても困るけど…」

「君がいつも行っている所に連れて行ってくれないか。君が美味いと思っている物を
 食べたい」

この前、宅見が食べさせてくれたような豪華な食事は今の俺の給料じゃ無理だ。
そう考えて言葉尻が弱くなった俺に宅見は笑ってそう言った。




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