… DOLCE VITE … 22










自分の本当の気持ちに気付いた今、俺の心は決まっていた。

ずっと人に与えられることが当たり前だと思って生きてきた俺に誰かに与える喜びが
あることを教えてくれたのは宅見だ。
それはもう、否定出来ない事実で否定する気もなかった。



いつもと何も変わらない月曜日にいつものように事務所に出勤して俺はいつものように
仕事をこなした。

心は落ち着いていた。

いつだって自分の決めたことに後悔したことはなかった。

自分の周りの人全てを幸せにするなんて、只のちっぽけな人間の俺には出来ない。
俺が出来ることは一人の、たった一人の人を大切にすることだけだ。

そう、たった一人の人を…


































「坂口君、帰らないの?」

事務の川端さんが帰り支度をしながら俺に笑い掛ける。

「あ、はい。少し芳賀さんに聞きたいことがあって…」

「そう。仕事熱心なのもいいけど無理しちゃ駄目よ」

俺の身体を気遣う言葉を残して川端さんは帰って行った。
川端さんが帰ると事務所は俺一人になった。
康彦さんの予定はその日のスケジュールが書き込めるようになっているホワイトボードに
書き込まれている。
そのホワイトボードには打ち合わせの後に直帰と書かれてあった。
だけど康彦さんのことだから必ず事務所に戻って来るはずだ。
そう確信してる俺は誰もいない事務所で康彦さんの帰りを待っていた。

土曜日に宅見に抱かれた後、自分の気持ちに気付いた時、真っ先に頭に浮かんだのは
康彦さんのことだった。


『ずっと、待ってるから』


康彦さんはそう言ってくれた。

だからこそ自分の気持ちを、自分の本心を真っ先に康彦さんに言わなければと思った。
俺の心は決まっていて俺がどうしたいのかを一番に伝えなければいけないのは康彦さんだと
思った。





静かな事務所の中でパソコンに向かいながら康彦さんの帰りを待つ俺に事務所のドアが
開く音が聞こえたのは十時を少し過ぎた時だった。

「お帰りなさい」

「智春?」

イスから立ち上がって出迎えた俺に康彦さんは驚いた顔をしてから微笑った。

「もしかして、僕を待っていてくれたのかな?」

「…うん」

いつだって俺を見守ってくれていた懐かしい康彦さんの笑顔に少し息が苦しくなった。

「…康彦さんに大切な話があるんだ」

「大切な話?」

「うん…」

「じゃあ、ここじゃなんだから出ようか?食事はまだなんだろう?」

事務所の戸締まりを一通り確認した康彦さんは自分のディスクにあった封筒を鞄に入れると
俺の側に歩み寄って来た。

俺はくじけそうな自分を叱りつけた。


「…ううん。今、ここでいいから」


康彦さんを嫌いになった訳じゃない。
嫌いどころか今でも康彦さんのことは尊敬してるし、宅見とは違うかたちで好きだ。

それはずるいことかもしれないけど…

だからこそ、ちゃんと俺の出した答えを伝えたい。
俺の顔は真剣なものになった。


「…智春?」

いつもと違う俺の雰囲気に気付いたのか康彦さんが不思議そうに俺を見る。
今まで俺と康彦さんの間に一度も流れたことのない空気が俺達の間に流れる。
静かな事務所の中で俺達は少しの間、まるで金縛りにあったように動けずにいた。
息をすることも声を出すこともまるで二人共忘れたようだった。

言わなければ。


「…俺」

そう心を決めて声を出した時だった。

「食事に行こう。そうだ、智春の好きなイタリアンにしよう」

俺の言葉を遮るように康彦さんが話し出す。

「…康彦さん」

「智春の好きなワインを頼んで。智春の好きな鴨を頼んで、そうだ、サラダは以前、
 ニ人で食べた時に智春が気に入った、なんていう名前だったかな。とにかく、
 それにしよう。又、昔みたいに二人でゆっくり食事をして…」

「…康彦さん」

「…そして、ゆっくり飲もう。智春の好きなギブソンの美味しい店を見つけたんだ。
 それがいい。そうしよう。だから…」

「……康彦さん…!」

まるで俺の次の言葉を聞きたくないかのように言葉を切らない康彦さんに俺は康彦さんの
名前を強く呼んだ。

「……智春…」

苦しそうな顔で俺の名前を呼んで康彦さんは鞄を落とすと空いた手で俺の腰を引き寄せた。

康彦さんの力は俺の抵抗を抑えるくらい強いものだった。
康彦さんの左手で掴まれた右手首に痛みが走った。
こんな康彦さんを俺は初めて見た。

俺の抵抗を封じた康彦さんが俺に顔を近付けてくる。
怖いくらい真剣な康彦さんの目にそれでも俺は目を反らさなかった。

大切な人だからこそ俺の話を聞いて欲しかった。


「…お願いだから…俺の話を聞いて」

手首の痛みは薄くなった。
康彦さんの瞳が少し揺らいだような気がした。

「俺、大切な人が出来たんだ。だから、康彦さんとは戻れない」

康彦さんの目を見つめたまま俺は一息にそれだけを言った。

俺の告白に康彦さんの手が俺の手首から離れた。
康彦さんは夢から醒めたような顔をした。
沈黙は長く続かなかった。


「……その大切な人というのは宅見のことかな?」

「え…?」

康彦さんの言葉に今度、驚いたのは俺の方だった。

どうして…


「…昨日、宅見から電話があったんだ。話があるから会いたいと言われた。
 だから宅見とは明日会うことになっていたんだ」

一歩、俺から距離を置いた康彦さんはそう言って苦笑した。

「…あの日、宅見に智春を合わせなければ良かった」

康彦さんは俺から目を反らした。

「ごめん…俺…」

謝ることは違うと思いながらも口をついて出たのは謝罪の言葉だった。

「宅見の智春を見る目に嫌な予感がした」

あの日、俺はタクシーの中で宅見よりも康彦さんが好きだと言った。

「…嫌な予感がしたんだ…アイツの智春を見る目に…宅見が誰かをあんな目で
 見たのは初めてだったから」

「………俺…」

何を言っても嘘になると思った。

何を言っても…


「…一人にしてくれないか…」

「……俺は…」

「…一人にしてくれ…」

康彦さんの目が俺を見ることはなかった。
一人にして欲しいと言う康彦さんにどうすることも出来なくて。

「……ごめん…」

それだけを言って、俺は事務所を出た。




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