… DOLCE VITE … 19










数分走って辿り着いた繁華街の片隅のビルの前で俺は涼の姿を見付けた。

「智春さん、大丈夫ですか?」

「うん、だ、大丈夫」

息の上がっている俺を心配する涼に深呼吸をして答える。

「あちらにいらっしゃいますよ」

涼はそう言うと俺をそのビルの裏手に案内してくれた。

































「…やぁ…君か」

ビルの裏手の階段の手摺に身体を預け階段に座っていた宅見は自分の前に立った俺を
見上げると力無く笑った。

「やぁ、じゃないよ…あんた何してんだよっ」

宅見の口の端は切れ、白いワイシャツには宅見のものだろう血が所々に付いていた。

黒いスーツはよれて…

違う。

ビルの裏の暗がりの中、目を凝らす。
宅見の怪我に気を取られて気付くのが遅れた。
白いワイシャツに真っ黒のスーツ。
そして、スーツの胸ポケットに無造作に突っ込まれた黒いネクタイ。

「あんた、なんで…」

宅見が着ているのは間違いなく喪服だった。


































泥酔してるうえにまるで抜け殻のようになっている宅見は結局俺一人ではどうしようもなくて
俺のマンションに宅見を連れて行くのに俺は涼の手を貸りた。
病院に行くことは宅見が拒んだ。

宅見のことを知らせてくれたことと運んでくれた礼を言った俺に涼は『今度デートして下さい』
と笑って言って帰って行った。
































汚れているジャケットを脱がせて傷の手当てをする為に宅見をベッドに座らせる。
顔に付いている傷よりも宅見の表情の方が俺には痛々しく見えた。

どうして。


「あんた、いい歳して何やってんだよ…」

どうして喪服でケンカなんだ。
しかも相手に一方的に殴られるなんて。

消毒液を含ませたガーゼで切れた口の端を拭きながら俺は呟いた。
その俺の呟きに宅見は答えなかった。

中学、高校と男子校で友人に頼まれてサッカー部のマネージャーをしていた。
だから傷の手当ては慣れていた。
幸い顔の傷は少ない。
だから俺は顔の傷の手当てを済ませると宅見のワイシャツの袖をまくって腕の傷の手当てを
始めた。
沈黙が続くなか俺は黙って宅見の腕の傷の手当てをした。
その傷の手当てが終わりかけた時だった。

「………母が死んだ…」

宅見は消えそうな声でそう言った。

「…え…?」

「…入院してるなんて知らなかったんだ…ずっと、会いたいと言われてたのに…
 ずっとそれを拒んで…」

「宅見さん…?」

「…死ぬなんて…ずっと母を恨んでた。俺を置いて出て行った母を恨んでたんだ。
 なのに…」

苦しそうに笑う宅見を俺はただ見つめるしかなかった。

「…自分に会うことを拒んでる薄情な息子の為に生命保険を残して死ぬなんて…
 どうして…」

自嘲気味に笑う宅見に俺は掛ける言葉を見い出せなかった。

「笑えると思わないか?たった…たった一千万だ。自分の息子がどんな仕事を
 しているのか知っているのに。たった一千万を残す為に毎月毎月積立てて」

宅見の思っていることが痛いほど伝わってくる。

たった一千万。

金融の仕事をしてる宅見には大した金額じゃない。

でも―

息子にとって大した金額じゃないことを分かりながらも宅見の母親は自分の出来る限りの
ことをしてやりたいと毎月毎月、宅見を思いながら積立てたのだろう。

息子にとってはなんてことはない金額だと知りながらも宅見の母親はそれを息子に残した。

宅見の母親はやはり宅見を愛していた。
だからこそ、その一千万は宅見にとって十億よりも重い。


「…父も恨んでいた。あんなに母を愛していたのに何故、簡単に他の男のもとに母を
 行かせたんだと…ずっと二人を恨んで。ずっと…俺は一人、自分だけが不幸だと
 思って。俺だけが…」

「もう、いいよ…もう、いいからっ」

自分を責める言葉を苦しそうに吐き出す宅見に耐えきれなくなったのは俺の方だった。
俺は宅見を抱き締めていた。
自分の胸に宅見の頭を抱き込んでいた。

「…ずっと、ずっと寂しかったんだ。ずっと…」

まるで子供が母親に縋り付くように宅見は俺に縋り付いた。
その力の強さに宅見の孤独感の大きさが分かった。

やっと。

やっと見付けた。
やっと本当のあんたに辿り着いた。

ダブルのスーツの鎧の下には寂しいと、寂しいのは嫌だと独りで泣いている子供の宅見がいた。


「…独りにしないでくれ。側にいてくれ…」

自分の胸元から聞こえる弱々しい呟きに胸が締め付けられた。

「…俺がいるから。俺があんたの側にいるから」

それは宅見を慰める為の気休めの言葉ではなかった。
本気でそう思った。

俺が…

俺があんたの側にいる。

ずっと。

ずっと、あんたの側にいてあんたを守る。

あんたを守るから。


「…智春…」

泣きそうな声で呟かれた自分の名前に俺は宅見を更に強く抱き締めた。

それはずっと家族や周りの人達に守られて大切にされて生きてきた俺が初めて誰かを
守りたいと思った瞬間だった。

誰かを、ううん、宅見を守りたい。

俺の全てでこの自分の腕の中の男を守りたい。

その夜、俺は男二人が眠るには狭い俺のベッドで宅見を抱き締めて眠った。




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