… DOLCE VITE … 1










ひと月前に別れた恋人と久し振りに飲む為に俺は付き合っていた頃、二人で
良く飲みに来ていたショットバーで元恋人にして俺の勤めるデザイン事務所所長を
独りショットバーで待っていた。

注文したギブソンはまだ半分以上残っている。
ゆったりとしたジャズとゆったりとした時の流れ、そして何よりも美味しいギブソン。
それらをもっと楽しむ為に細身のメンソールに火を点ける。

神経細胞に電流を流すような音響の中でまるで発光体のように人間というカテゴリーから
自分を解放するように踊り狂うのもいいけど、こういうゆったりとした時を過ごすのもいい。
そんなことを考えながらメンソールを半分ほど吸った頃、ショットバーの入口の扉が開き、
待ち人が姿を現した。

店員の『いらっしゃいませ』という言葉を微笑みで受け止め、カウンターから振り返っている
俺を見つけて店員に向けたものとは比べものにならない甘い微笑みを顔に浮かべる。

別れてからも毎日、職場で顔を見ているのに。
やはり、康彦(やすひこ)さんはイイ男だった。

年齢だって三十六歳なのに職業のせいか全然、老けてない。
柔和な笑顔を浮かべ、柔らかな物腰で俺をリードする。
仕事もプライベートも。
そして、セックスも。

ずっと憧れていた康彦さんと恋人という関係になれて最初、浮かれていたのは俺の
方だった。
なのに、別れを告げたのも俺だ。

原因はない。
分からない。

でも、あえていうのなら、兄じゃなかったということぐらいだろうか。
俺には九歳離れた兄がいる。
兄は優しくて何でも出来て、俺には唯一の存在だった。
まるで、たった一人の運命の人かのように兄の話をする俺を友人達は苦笑いしながら
“ブラコン”と言ったが、そんなことは俺には大したことじゃない。
それどころかブラコンだと一番分かっているのは俺自身だ。
他の誰でもない。
人に言われなくても物心ついた時からブラコンだっていうのは俺が一番分かってる。
だから、つい、付き合う人間を兄と比べてしまう。
そして、俺の二十四年間の人生の中で俺はまだ兄以上の人間に出会っていなかった。


























ひと月前までベッドで一緒に眠っていた康彦さんは俺の知らない男と一緒だった。
年齢は康彦さんと同じくらいだと思う。
ソフトスーツの康彦さんと対照的に男は仕立てのいいカッチリとしたスーツを着ていた。
暖色系のスーツの康彦さんと寒色系のスーツの男。

しかし、スーツの色とは違い、流れる水のようにしなやかな印象の康彦さんに対し、
男は炎のように情熱的な印象だ。
まるで正反対の大人の男の色気をもった二人はバーの人々の視線を集めていた。

「遅くなって悪いね、智春(ちはる)」

俺を待たせたことを謝り、康彦さんが微笑む。

「ううん。別に」

康彦さんに軽く微笑み応える俺を男は意味深な視線で眺めている。

「あぁ、こいつは宅見(たくみ)。高校からの友人でね。偶然、店の入口で会ったんだ」

探るように男を見た俺の視線に気付き、康彦さんが男を俺に紹介する。

「宅見、こっちは僕の部下の坂口智春君だ」

「よろしく、智春君」

康彦さんが男に俺を紹介する。
その紹介に男は不躾な視線で俺を眺めた後、俺の名字ではなく名前を呼んで右手を
差し出してきた。

初対面のくせに。
宅見という男の馴れ馴れしい態度は俺の神経を逆撫でした。

「どうも」

男の挨拶を軽く流し、差し出された右手は無視した。

「なかなか、気の強い美人だ」

俺の態度に男は小馬鹿にしたように微笑んで右手を引っ込めた。

女じゃないのに美人だと褒められたり、意味深な視線を送られたりするのには慣れていた。
俺にとってはなんてことはない見慣れた自分の顔なのに他人にとっては価値があるらしい。

「おいおい、僕の大切な部下を怒らせないでくれよ」

俺がそういう褒め方をされるのを嫌っていることを知っている康彦さんは、その場の
雰囲気を和ませようと軽く宅見という男を諌めた。

「智春、宅見も一緒でいいかな?」

申し訳なさそうに康彦さんが俺を見る。

「別に。俺はいいよ」

俺を気遣う康彦さんに悪い気はしたが俺はわざと素気ない言い方をした。

「そりゃ、どうも」

俺の返事に宅見は苦笑し、康彦さんと一緒にイスに腰をおろした。






























俺と宅見に挟まれた康彦さんは高校時代の思い出を楽しそうに宅見と話しながらも俺が
独りにならないように話を向けてくれる。
それも俺が気を使われてると負担にならないように。
こういう康彦さんの細やかな心使いは兄と似ていて俺は康彦さんのそういう所に惹かれた。
別れたからといって嫌いになった訳じゃない。
むしろ俺は今でも康彦さんが好きだ。
じゃあ、何故別れたんだと言われれば答えようはないけど…
二人の思い出話を聞きながらギブソンを飲む。
高校時代のクラブの話から恋愛の話まで本当に懐かしそうに楽しそうに話す康彦さんに
俺も楽しくなってくる。
まるで神経を優しく撫でるような康彦さんの声と穏やかな口調に俺が酔い始めた時に
康彦さんは話を切り、胸元から携帯電話を取り出した。
蛍光色の緑が光っていることで電話が着信中だと気付く。

「はい。芳賀です…」

そう名乗った後の話振りで仕事の電話だと分かる。
康彦さんは苦笑を顔に浮かべると俺と宅見に目で詫び、携帯電話を耳に当てたまま、
少し前に入ってきた入口から外に出て行った。




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