… deep in a dream … 5






なんてことは無い普通の日だった。

マンション近くで降り出した雨のせいでスーツのジャケットが濡れた。

濡れたジャケットを寝室のハンガーに掛け、シャワーを浴びる為にバスルームに入る。
夕食は外で済ませた。
料理が出来ない訳ではないけど伊原さんと付き合い出してから独りでする食事は味気無くて
作る気にもならなければ食べる気にもならない。

だから、つい抜いてしまうことの方が多かった。
今日だって夕食と言っても駅の近くのファーストフード店でハンバーガーを一つ食べただけ
だった。

ぬるめに設定したシャワーを頭から浴びる。

簡単に頭を洗い身体を洗うと俺はバスルームを後にした。

バスローブだけを羽織った姿でベランダに続くガラス扉から外を眺める。

降り出した雨に止む気配は無い。

部屋を占領していく湿度に身体が重くなっていくような気がする。
梅雨明け宣言はまだ出されていない。
しかし、梅雨が明ければ夏が来る。
それは俺の心をもっと重くする。

夏は昔から苦手だった。
父も母も北海道の人間だ。
北海道の片田舎から結婚を機に上京してきた。
そして、こちらでの生活が軌道に乗らない内に俺が産まれた。
上京したばかりの若い夫婦には生活の余裕も時間も無かったのだろう。
物心ついた時から俺はよく半年といった単位で北海道の祖母の元に預けられた。

北海道に梅雨は無い。
夏だって清々しい。

そんな北海道で俺は祖母と一緒に子供の時期を過ごした。
都会にあるような色とりどりの甘いお菓子は無かったが祖母が茹でたトウモロコシや
蒸かしたジャガイモは都会のお菓子に負けないくらい美味しかった。
そして、子供の俺を幸せな気持ちにした。

もし、幸せに味があるとしたらあんな味なのだろう。

祖母は小さな畑を持っていた。
俺はその畑で出来る野菜の収穫をよく手伝った。
手を泥だらけにして手伝う俺を祖母は褒めてくれた。



「美希は良く手伝いをしていい子だね」



そう…

褒めてくれた。



「美希はいい子だね」



と、言って。

俺の人生の中で祖母と過ごしたあの頃が一番、幸せな時だった。
そう、確かに俺はあの頃、幸せだった。

そんな、俺に幸せを教えてくれた祖母は俺が十三歳の時に死んだ。
棺桶の中で安らかに眠る祖母の顔に涙は出なかった。

俺はその時初めて、人間は本当に悲しい時には涙が出ないのだということを知った。



「美希はいい子だね」


「美希、いい子だ」



祖母の言葉と彼の言葉が重なる。
俺がずっと求めていたものはその言葉かもしれない。
そして、伊原さんはそれを俺にくれた。

伊原さんだけがくれた。


彼だけが。



伊原さんは一昨日、マンションに来た。
だから、今日は来ない。
降る雨のように憂鬱が俺の中を浸していく。


伊原さんに会いたい。

伊原さんに触れたい。


降り積もる憂鬱から逃げ出す方法を見付けられなくて俺はソファーに身体を投げ出した。
ソファーに寝転がり目を閉じる。
何処からか聴こえる微かな音は最初、余りにも伊原さんに会いたいと願ったが為の俺の
幻聴かと思った。
しかし、止む気配の無いその音にそれが現実のことだと確信する。
急いでソファーから起き上がり、キッチンテーブルの上に置いたままになっていたカバンから
携帯電話を取り出す。
光るディスプレイには俺の期待していた名前が浮かんでいた。
その名前に早くなる鼓動を感じながら通話ボタンを押す。

「もしもし…伊原さん?」

「今、マンションの下にいる。今からそちらに上がるよ」

恋焦がれた声は俺の期待を上回る言葉を囁く。


伊原さんに会える。


俺は携帯電話を切るとすぐに玄関に向かった。


まるで飼い主の帰りを待つ犬のように玄関ドアを見詰める俺の目の前でドアがゆっくりと開く。
開いたドアから微笑みを浮かべた伊原さんがこちらに入ってくる。

「カバンは…」

いつものようにカバンを受け取ろうと伸ばした手は伊原さんの手に掴まれ、引かれ、俺は
伊原さんに抱き締められた。

「…なに…?」

今までこんなことは無かった。

「今日は気分がいいんだ」

それを言う声さえも楽しそうだった。

半年も伊原さんと一緒にいたのに。

こんなに楽しそうな伊原さんは初めてだった。
頬に伊原さんの手が触れ、顔を上向けさせられる。
そして、伊原さんの唇が俺の唇に降りてくる。

伊原さんの舌の愛撫に酔い始めた俺は抱き締められた時に感じた雨の匂いに混じっていた
微かな煙のような匂いもドアを開け、微笑みを浮かべる前に一瞬だけ見えたドアの向こうの
伊原さんの瞳に宿る獰猛な光もどうでもよくなっていった。






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