… deep in a dream … 1






ダメだ。



その男を見た時、俺の中で何かがそんな警笛を鳴らした。



この男はダメだ。



少し照明の落ちている店内でその男は女性客の視線を集めながらカウンターの端で独り
ロックグラスをかたむけている。
しがないサラリーマンの俺にも分かるくらい仕立ての良いスーツ。
煙草を銜えている横顔は同性の俺でも見惚れてしまう程、大人の男の色気を漂わせている。
若い俺には到底醸し出せない男の歳月に裏打ちされた雰囲気に俺は男から視線を外せなく
なっていた。

ダメだと思うのに視線を外せない。

そんな俺の不躾な視線に気付いたのか男がゆっくりとこちらに顔を向ける。

慌てて顔を背ける俺の視線の端には微かに微笑んでいる男の目があった。


きっと気付かれた。

ずっと見ていたことを気付かれた。


それだけのことなのに鼓動が早くなる。
こちらを見ている男の視線に身体が熱くなる。
それはまるで熱病に侵されるような感覚を俺にもたらす。

一向に外される気配のない視線に眩暈を感じ始めた時、俺の前にタンブラーが差し出された。

「あちらのお客様からです」

グラスの中では涼しげな炭酸の泡が弾けている。
グラスの中に浮かぶライムにそれは店に入ってから俺がずっと飲んでいたジントニックだと
気が付いた。

「もし、ご迷惑でなければご一緒にとのことですがいかがなされますか?」

驚きで言葉を無くしている俺にバーテンダーは男の伝言を伝える。
その伝言に俺は男の方を振り向いた。

火の点いた煙草を人指し指と中指に挟み男はこっちを見ている。
その苦みを浮かべた微笑みに俺の背中を何ともいえない痺れみたいなものが走った。



この男はダメだ。



俺の中の何かがそう言っている。

そう言っているのに…


「お客様?お断り致しましょうか?」

何時までも答えない俺をバーテンダーが急かす。



ダメだ…



そう思っているのに…


「……僕は一緒でも構いません…」

逃げられない何かに捕えられたかのように俺はそう答えていた。













男の申し出を受けたのは断って男に男の視線を意識していたと思われるのが嫌だったからだ。

俺は頭の中で自分にそう言い効かせた。

「せっかく独りで飲んでいたのに迷惑だったかな?」

俺の隣で男はさっきまでとは違う人懐こい笑顔を浮かべている。

「…いえ…」

男の微笑みに見惚れながら俺はそう答えるのが精一杯だった。

「もしかして、誰かと待ち合わせでも?」

「…いえ…」

同じ返事を繰り返す俺に男は苦笑する。

「私は待ち人来ずと言ったところでね。どうやら、振られてしまったらしい」

グラスを軽く揺らしながら言う男の言葉はまるで真実味がなかった。

「…そうなんですか?」

こんな男を振る人がいることが俺には信じられなかった。

「あぁ。独りで飲むのは味気ないが知った顔にも会う気にはならない。
 そんな時に君がいた。君からいい返事を貰えて良かった」



―君からいい返事を貰えて良かった―



その言葉は魔法の呪文のようだった。


この明らかに全ての人間が羨むだろう男に俺は求められた。
それは何の根拠もない俺の勝手な思い込みなのに俺に優越感をもたらす。

「そんな…僕の方こそ…」

いつの間にか男に感じていた説明しようのない畏れのようなものは俺の中から消えていた。

「振られた男と飲むのは迷惑じゃないかな?」

人懐こい笑顔で問われ俺に断る理由は無かった。

人懐こい笑顔にざっくばらんな口調。
流れるような会話の中に時々覗く嫌味の無い男の豊富な知識。

こんなに他人と会話をしていて楽しいと感じのは初めてだった。
一時間もすると畏れどころか俺は男に尊敬の気持ちすら持つようになっていた。

こんなに優しい人に畏れを抱いたなんて、そんな自分を恥ずかしいとさえ思った。

だから男の「君さえ嫌でなければ場所を変えないか?」と言う言葉にも俺は素直に頷いていた。

店の支払いは男が済ませた。
自分の分は自分でと言った俺に男は「次は君に奢って貰うことにしよう」と微笑んだ。
それは穏やかで優しい口調なのに何故か有無を言わせない響きがあり俺はそれ以上、
何も言えなくなってしまった。
それに男の言った“次”という言葉に俺は自分が望みを掛けていることに気付いた。

又、この男は俺と会ってもいいと思ってくれている。

それは恋の感覚に似ていた。

























店を出、捕まえたタクシーに二人で乗り込む。
男はタクシーの運転手に手短に行く先を告げるとシートに身体を預けた。

「時間は大丈夫かな?」

優しい口調は変わらない。

「はい、どうせ一人暮らしですから」

「そう。男の一人暮らしだと何かと大変だろう?否、彼女がいればそうでも無いかな」

「…いえ、彼女はいません。先月、別れました」

それは本当のことだった。
三ケ月付き合った彼女とは先月、別れた。
振られたのは俺の方だ。
しかし、振るように仕向けたのは俺かもしれない。

昔から女の子と付き合って長続きしたことは無かった。
深くなればなる程、彼女達の無言の期待に押し潰されていく。
俺は精神的にも経済的にも他人を守れる程強くはない。



男だから強くなければいけない。

男だから泣いてはいけない。

男だから女を守らなければいけない。

男だから…



何の疑問を持つこともなく受けた幼い頃からの教育に俺は疲れていた。

「振られた者、同士か」

そう言って男は愉快そうに笑った。

その笑顔の瞳の奥に一瞬だけ見えた鋭い光に俺は男の顔を見詰め直したが俺が見詰め直した
時には既にそんな光の痕跡は跡形もなく、あるのはここ一時間ちょっとで見慣れた人懐こい
男の笑顔だけだった。






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