… call you … 1







『ほら、大丈夫だ。大丈夫だから、おいで、千裕(ちひろ)』


自分に向けられた大きな手に俺は手を伸ばす。

その俺の手を自分の肩に導くと洋平は俺の体を高い木の上から抱き下ろしてくれた。

物心ついた時からそうだった。
いつも、何かに困った時や怖い目にあった時、俺は洋平の名前を呼んだ。


『洋ちゃん!』


泣きながら、何度も何度も洋平の名前を呼ぶ。


『どうした?千裕?』


俺が泣いて名前を呼ぶと洋平は必ず来てくれた。


『千裕、憶えてる?千裕がママとパパの次に覚えた言葉は“洋ちゃん”なのよ』


そう言って母さんは笑った。


大きな手と優しい声。

俺にとって洋平はどんなことからも俺を守ってくれるスーパーマンだった。
そう、洋平は俺だけのスーパーマンだった。

あの時までは…






































「小笠(おがさ)、これからどうする?マック寄って帰らない?」

塾の帰りに同じ中学校の津島(つしま)が俺に聞いてくる。

「うーん、どうしよっかなぁ」

「寄って帰ろうぜ。受験生にも息抜きは必要だって」

ニッと笑う津島に俺は曖昧に笑い返す。
津島の言った“息抜き”という言葉には俺も心を動かされた。

「息抜きか…」

「そう、息抜き。息抜き」

はしゃぐ津島に今度は確実な笑顔を返す。
昨日から少し頭が痛いような気がしたけど、それに気付かない振りをして俺は津島と
一緒に駅近くの繁華街にあるマックに向かった。


俺にはどうしても行きたい高校がある。

だから、足りない偏差値を補う為に俺は15年間生きてきた中でこんなに必死に
なったことはないんじゃないかって思うくらい必死だった。

睡眠時間を削って、平日も土日も関係なく、机に齧りついて。
俺は第一志望の青陵高校に受かる為に必死だった。


「小笠って第一志望、青陵だっけ?」

「…うん」

受験生同士だからこその話をしながら、大きな道路を横に俺は津島と一緒にマックへの
道を歩く。
夜の繁華街のライトアップを見る余裕も今の俺にはない。

「青陵だったら、勉強大変だろ?」

「うん…かなり…」

先生には一つランク下の高校を勧められた。

でも、母さんと父さんは言ってくれた。
“受けたい所を受ければいい”って。


「俺も結構、限界。もう、一杯一杯」

「俺もだよ…」

津島の顔を見て、今度は津島に自分だけじゃないって分かって欲しくてそう言った俺は、
たまたま見た津島の後ろにあるイタリアンレストランのドアから出て来た人に驚いて足を
止めてしまった。

「小笠…?」

自分の後ろを見たまま、立ち止まった俺に津島は不思議そうな顔をする。
でも、そんな津島のことより俺は偶然見付けた顔に嬉しくなって、その人の名前を
呟いていた。

「…洋ちゃん……」

津島には悪いけど、やっぱり、マックは止めよう。
洋ちゃんと一緒に帰ろう。

「津島、ごめん。やっぱり、俺…」


帰るよ。

そう言おうと思ったのに…

洋平が出て来たドアから又、人が出てくる。
ドアから少し離れた所で洋平は立ち止まったまま。

何故か息が少し苦しい。


「小笠…?」


津島の声も遠くから聞こえる。

すごく綺麗な人だった。

俺の母さんだって綺麗だけど、母さんとは全然違う。
子供の頃、絵本で見た冬の国の女王様の挿絵の女王様に似ていた。
花に例えたら、真紅のバラ。
そんな綺麗な人が洋平に微笑みかけ、洋平もその人に微笑む。

俺だって男だから分かる。
普通の男だったら声さえ掛けられないほどに綺麗な人が洋平に微笑み、洋平はその人の
肩に自分の手を置く。

息が苦しい。


「小笠?どうしたんだよ?」


頭が割れるように痛い。


「……気持ち悪い…」


胸が苦しい。

肺が痛い。


「お前、顔、真っ青だぞ」


知らない。

あんな綺麗な人、知らない。

足にも手にも力が入らない。
手の、足の先から体が冷たくなっていくのが分かる。


「オイ、小笠、大丈夫かよ?」


まるで、体がバラバラになるように痛い。


「……吐きそう…」


それだけを言うのが精一杯で。
俺は力が抜けていく自分の体を自分で支えるように自分を抱き締めるとその場に蹲った。

「オイ!小笠!」

俺を心配して俺を呼ぶ、津島の声さえ遠くから聞こえる。

「小笠!」

津島の俺を呼ぶ声を聞きながらも自分でもどうしようもなくて、蹲ったまま俺は
身動き出来ない。

だんだんと周りの雑踏さえ、遠くなって。

蹲ったまま、その場に倒れかけた俺の耳に聞こえてきたのは物心ついた時から
聞き慣れていた洋平の声だった。








































微かな車の振動が体に伝わってくる。
頬には温かい人の温もりと頭を撫でられる手の感触。

タクシーのバックシートで洋平の太股に頭を乗せて、横になってる俺の体には洋平の
コートが掛けられていた。
蹲ったまま倒れかけた俺の体を支えてくれたのは洋平だった。


『千裕?千裕だよな?大丈夫か?』


びっくりしたような洋平の声に安心して俺は少しだけ残っていた体の力を抜いた。
















「家まで、もうちょっとだからな…」

俺の頭を撫でる手の温もりと優しい声に少しずつ意識が戻ってくる。

「…まだ、気持ち悪いか?大丈夫か?」

「……うん…大丈夫…」

「津島君も心配してたぞ…」

「…うん…」

月曜日、津島に会ったら謝ろう。
ぼんやりとした頭でそう思う。
でも、俺には迷惑を掛けた津島よりも気になることがあった。

「……洋ちゃん…」

「…うん?」


さっき、一緒にいた人、誰?

俺の知らない人。
綺麗な人。
洋平の隣にいた綺麗な人。

洋平の…

俺の洋平の隣に…

簡単な質問はどんな質問より難しかった。


「…どうした?千裕?」


俺の頭を撫でる手は止まらない。
さっきの綺麗な人が誰かは分からない。

でも

でも、洋平はその人をおいて、俺のところに来た。


「……なんでもない…」

俺を助けに来た。

「家に着いたら起こしてやるから、寝てろ…」

「…うん」

その人をおいて、俺を助けに来てくれた。

そう自分に言い聞かせると少し心が落ち着いて…

俺はさっき開けたばかりの目をぎゅっと閉じた。






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