… 9(ナイン) … 1 










繁華街にあるビルの一室。
その一室で俺は男を待っていた。
日本でも有数の繁華街の中にあるビルなのに俺がいる一室には外からの音が
一切入ってこない。
静かすぎる部屋にスーツ姿で真っ直ぐに背筋を伸ばし壁を背に立つ男が二人と
応接セットのソファに俺と向かい合って座っている男が一人。
そんな自分の鼓動の音さえ聞こえそうな静まり返った部屋に男、貴志(きし)が
現れたのは俺と向かい合って座っている後藤(ごとう)という名前の男が携帯で
貴志に連絡を取ってから十分後だった。
静かな部屋のドアが開き、開いたドアの向こうから貴志が姿を現す。
それまでもどこか張り詰めた空気を孕んでいた部屋内だったが、貴志が現れたことで
それは高まった。

「お疲れ様です」

部屋に足を踏み入れた貴志に後藤がすぐに立ち上がり、壁に並んだ男達と共に
腰を折る。
その男達の勢いに面食らった俺はソファから立ち上がることも出来ず、後藤と入れ
替わりに俺の前のソファに腰を下ろした貴志の姿をただ目で追っていた。

「で、いくらいるんだ?」

ソファに深く座った貴志はソファの背凭れにゆったりと背中を預け、長い足をゆっくり
組むと前置きなしですぐに本題を口にした。

「あ…出来れば五億」

貴志の言葉にはっとし、問われたことへの返答を口にする。

「五億か」

俺の返答に貴志はさして驚きもせず俺の返答を繰り返すとスーツジャケットの
内ポケットからタバコを取り出し一本を口に銜えた。
すぐさま貴志の隣に立っていた後藤が貴志のタバコにライターで火を点ける。
それを当たり前のようにやり過ごした貴志はゆっくりタバコの煙を吸い込んだ。

「お前の欲はなんだ?カネか?オンナか?名誉か?」

タバコの煙を吐き出した貴志が俺を見詰め、問う。

歳は三十代後半。
高い身長に均整のとれた身体。
どこか見たことのある顔だと思ったのはハリウッドのマフィア映画に出ていた俳優に
似ているからだと気付いた。

俺に貴志を紹介してくれたのは金融ブローカーの浜根(はまね)だ。
そして、その浜根を紹介してくれたのはベンチャー企業の若手企業家達の懇親会で
知り合った刈谷(かりや)だ。


『“早い金”が必要な時は相談してくれ』


親しくなってしばらくした頃、刈谷は言った。
そして、その刈谷の言葉を俺は頼った。
死にものぐるいで立ち上げた会社だ。
ここで潰すわけにはいかない。
何故なら、それは始まりだからだ。

俺の回答を待っているのだろう。
貴志はゆっくりとタバコをふかしながら俺を見ている。
その俺を見る貴志の目は深い光を湛えていてその光の深さに俺は心の奥底まで
見透かされているような気がした。

「十年近く前の話だ」

この男に嘘や誤魔化しは通用しない。
そう思った時だった。
貴志は薄っすらと皮肉混じりの微笑みを浮かべると話し出した。

「二丁目に“カイ”という源氏名のガキがいた。ソイツはてめぇの顔と身体で
 金持ちのオヤジをたらし込んでは金を貢がせていた。金を持ってるヤツになら
 誰にでも股を開く。周りのヤツには影でそう言われてたらしい。だが、ある日、
 パトロンの一人が破産した。カイにとっちゃ金のない男に用はない。だから、
 その男をあっさりと棄てた。だが、その男は本気になっちまってたんだろうなぁ、
 カイに棄てられ自棄になった男はカイを刺した」

ヤクザの情報網は素晴らしい。
貴志の昔話を俺は黙って聞いていた。

「さすがにガキの時から二丁目で生きてきただけのことはある。こんな昔話
 ぐらいじゃ顔色一つ変えねぇか」

薄っすらと微笑っていた目は更に楽しそうに細められる。

「なぁ、“カイ”、腹を刺された時はどうだった?痛かったか?傷はどうだ?
 傷はまだ残ってるのか?」

五センチある刺し傷は未だ俺の左脇腹にある。
もう少し位置がずれていたら危なかったとパトロンの一人だった医者は言った。


『本気で愛してるんだ…カイ。カイだって本気で俺を愛してくれてたんだろう?』




そんなモノはいらない。
そんな目に見えないモノはいらない。
簡単に壊れるモノはいらない。


『カイ…俺を棄てないでくれ…カイ』


泣いて縋っていたくせに。


『どうしても別れるって言うなら…お前を殺して俺も死ぬ』


男の狂気じみた目と突然の出来事に逃げる余裕も避ける余裕もなかった。
ただ、もう名前すら思い出せない男の手にしていた包丁がめり込んだ場所が
熱かった。
俺を焼き尽くすかのように熱かった。

もう十年近くも前の話だ。
寒くなると傷は時々、痛むがそれだけのことだ。

「傷、ご覧になりますか?」

俺を試しているのか、それともただの好奇心か。
貴志の腹を探りながら微笑ってやる。
そんな俺に貴志は一瞬だけ真顔になったかと思うと声を出して笑い始めた。

「こりゃいい。さすが金持ちのジジィ達を手玉に取ってきただけのことはある」

何がそんなに楽しいのかひとしきり笑った貴志は前屈みになると身体をぐっと俺の
方に近付けてきた。

「もう一度聞く。お前の“欲”はなんだ?」

背筋を伸ばしソファに腰かけたままの俺の顔を見上げ、貴志はさっきした質問を
繰り返す。
その俺の顔を覗き込む貴志の目は歪に光っていて、その目に俺は腹を括った。

「カネも名誉も地位も名声も全て」

そう全て。
全てが欲しい。
いや、必要だ。

「そりゃ、随時と強欲だ」

俺の返答に貴志はすぐさま切り返す。

「欲しいわけじゃない。必要なんです」

「必要?何の為に?」

今日、初めて会った男に何を話すつもりだ?
そう思うのに。
俺は自分を止められなかった。




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2008.11.14