… 刃 …











いっそ攫ってしまえたら、楽になるのだろうか。

あの人を攫って、閉じ込めて。

一生

そう、一生

一生、俺のもとに。


『俺があなたを幸せにします』

そんなありきたりのセリフを口にして。

だけど、きっと、あの人は困った顔で笑って言うのだろう。
それは若さゆえの一時の感情だと。


























『…ふとした時に辛いんだ。分かっていたことなのにね』


深夜二時をまわったショットバーであの人はぽつりと呟いた。


『…寂しいのかな?僕は…』


頬杖えをつき、寂しげに笑いながら。

アルコールのせいにすればいい。
それが無理なら、強引に奪われたことにすればいい。

理由ならいくらでも。
あなたが楽になる為の理由なら、いくらでも。
俺が作るから。
あんなズルイ男のことなんか忘れて。
あなたはただ、俺を受け入れて。



背中に食い込む爪の痛みだけが現実だと俺に教えた。

腕の中のあなたは俺の名前を呼ぶけど、あなたの心の中までは分からない。
入れない。

ズルイ男とは違うキスも愛撫も、もしかして、あなたは頭の中でズルイ男のモノに
すり替えてるのかもしれない。

手に入れたのは体だけなのに、時々、錯覚しそうになる。
あの人の全てを手に入れたんじゃないかと。
だから、俺は気付かない振りをする。
あの人が罪悪感を感じないように。
それだけが俺のプライドだ。

俺のこの恋に対するプライド。


























「僕はどうしようもないね」

シーツに埋もれ、あなたは自嘲気味に呟く。
寂しさを埋める為の行為は余計にあなたを寂しくさせるのだろうか。

「いっそ、俺と逃げましょうか?」

どこまでも。
誰も何もない場所に。

「僕の為に全部を捨てるの?」

からかうようにあなたは微笑む。
あなたが望むなら。

「いいですよ。俺はいつでも」

でも、あなたが自分の為に全部を捨てて欲しいと願ってる相手は俺じゃない。

「君のご両親に恨まれるよ」

全部を捨てて欲しいと言えない男を好きになったあなたが悪いのか。
全部を捨てられないくせにあなたを愛した男が悪いのか。

心の中に刃はいつだってある。

あなたが好きなあのズルイ男を刺す為の。
何度も何度も、俺は頭の中で顔も知らない男を刺す。
刺して、刺して、その男の血で俺の体は真っ赤に染まる。

「一緒に逃げようって言えばいい」

そして、俺が人殺しになる前に俺の前からいなくなればいい。

「彼を苦しめたくないんだ」

「嘘つきなんですね」

本当は怖いだけだ。
捨てられるのが。
全部を求めて拒否されるのが。

「そうだね。僕は嘘つきで卑怯だね」


所詮、俺達は卑怯者の集まりだ。
夫の浮気を知りながら知らない振りをする妻に、妻がいるくせにあなたをも求める男に、
不倫の寂しさを俺で埋めるあなたに、あなたの寂しさにつけ込んだ俺。
誰もが自分を守ることに必死で袋小路から抜け出す術を考えようともしない。
でも、だからこそ俺達のバランスはとれていた。

そう、とれていた。
筈なのに。

永遠に続くかと思われたバランスはある日、いとも簡単に崩れた。

「…彼の離婚が成立したんだ」

ずっと二人の隠れ家だったマンションであの人は複雑な顔をして、そう言った。

「良かったじゃないですか。これで俺は用なしですね」


刃はいつだってある。

ずっと、ずっと。

心の奥深くに。

今だって。
いつでも、あなたを刺せる。


「…そんな…用なしって…」

俺が心に刃を持つように、あなたにも刃はあるのだろうか?
あるなら、もし、あなたの心にも刃があるなら。

「丁度良かった。俺もそろそろかなって思ってたんです。あなたには悪いけど、
 十分いい思いはさせてもらいましたから。あなたも七つも年下の男の体を
 堪能出来て満足だったでしょう?」


もし、あなたの心にも刃があるなら。

いっそ、俺を刺してくれ。

ひとおもいに刺してくれ。



頬への衝撃は一瞬のことだった。
その衝撃は残酷だった。


「…どうして」


どうして…?


「僕は…僕は」


あなたの弱さが愛しかった。
愛しくて。
愛しくて。


「……ごめん…」


あなたの脆さや弱さが愛しかった。
愛しくて。
愛しくて。

だけど

今はあなたの弱さが憎い。

何故、俺を殴った?

何の為に?

何故…

最期の最期に。

あなたは残酷だ。


「…あなたは残酷だ」


どうせなら、刺せよ。

俺の息の根を止めろ。

中途半端な傷はやがて膿み、体を蝕む。
だから、どうせなら、いっそひとおもいに。

でも、弱いあなたにそんなことは出来ない。
そんな微かな願いさえ、叶わない。

だから

だから、あなたにも俺と同じ傷を。
癒えることのない傷を。


「…その人と幸せになって下さい。あなたが幸せなら俺はいいんです」


中途半端な傷はやがて膿み、体を蝕む。
だから、あなたにも一生癒えない傷を。
何故なら、あなたに残るその傷が俺が例え、ひと時でもあなたと生きたという現実の
証明になるから。


「幸せに…」


振り返らなかったのは追いかけて来ないことが分かっていたからだ。
俺を追いかけてこれるほどあなたは強くない。

あなたの弱さが愛しかった。

愛しくて

愛しくて…

そして

そして…

ズルイ男は最期の最期にズルイ男でなくなった。

ズルイ男がズルイ男でなくなった今、あなたは彼に何を見るのだろう。
そして、男はあなたの弱さを知っているのだろうか。
そして、俺の心の刃はどこに向かうのだろうか。






■おわり■




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