… WOLF …









海や山。
空。
そして、大地の果てまで、僕は、あの人を探し求め、駆ける。
優しかった風が、冷たい風に変わり、夕日はとうに沈み、辺りを薄い闇が支配する。
木々の葉が、触れ合い擦れ合う音に紛れ、鳥や獣達の声が微かに聞こえる。
仲間を求め呼ぶ鳴き声は低く物悲しい。
独り取り残されるのは嫌だと鳴く声は辛く冷たく、しっとりと僕の心を悲しみで濡らす。

どれだけ歩いたのかは分からない。
どれだけ時間が経ったのかも。
幾日歩いたのかも。

“人の心を失った者は獣に身を堕とすだろう”

それは、遥か昔、王家にかけられた呪いだ。
王に自分の妻を奪われた男が、首を切られる間際に叫んだ言葉。

“王は獣に成り下がった。王の血を継ぐ男子はこれから千年、人の心を失った時、
 獣に成り下がるだろう”

夫を殺された妻は狂い、王の寝台で自ら己の首を切り、息絶えた。

“王の血を継ぐ男子はこれから千年、人の心を失った時、獣に成り下がるだろう”


『あんなのは昔話だ。季李(きり)は獣になんてならないから安心しろ』

夜、闇の中、獣に変わる悪夢を見、泣きながら目を覚ました僕を兄上は、そう言って
慰めてくれた。

『兄上は怖くないの?』

寝台の上で涙を兄上の袖で拭いて貰いながら聞く僕に兄上は笑う。

『怖いもんか。俺は王になるんだぞ。もっと強くなって、ずっと季李を
 守ってやるからな』

笑う兄上に安心し、僕は又、目を閉じる。
兄上に手を握って貰い、僕は眠りに落ちていく。

ずっと

ずっと、こんな穏やかな時が過ぎていくのだと思っていた。

何時までも

何時までも

永遠に

僕の命が尽きるまで。

強い兄上。
優しい兄上。
誰よりも。
誰よりも強く優しかった兄上。
大好きだった兄上。

だけど、穏やかな時は、永遠ではなかった。


あれは、二年前だ。
大好きだった母上が亡くなり、新しい妃が来て、新しい王子が産まれた。
そう、新しい王子が産まれた次の日だ。


『俺の側に来るな!』

鋭い声だった。

『兄上…どうなされたのですか…?』

月だけが照らす兄上の部屋の窓際、開け放たれた窓を背に兄上は僕に鋭い声を
投げた。

『季李、頼むから俺を見ないでくれ…』

鋭い拒絶の声は、自嘲を含んだ。

『兄上…?』

月の灯りを背にしていたため、兄上の顔は見えなかった。

『俺は…俺は、獣に変わる。きっと人の心は失うだろう。人としての記憶も
 無くすかもしれない…』


月が。

月が僕と兄上の邪魔をした。

『そんな…まさか…』

あれは昔話だ。
遠い、遠い昔の。

『もう、ここには居られない…お前とは居られない』

『どうして…?どうしてですか?』


ずっと、ずっと一緒に。
僕の命が尽きるまで。
兄上と一緒に。
何時までも。


『俺は人の心を失った…』

悲しい声だった。
深く悲しい声だった。

『嫌です…僕は嫌です…』

兄上に触れたくて。
一歩、兄上に近付く。

『来るな!』

鋭い声は、鋭いが故に悲しい。

『兄上…』

『お別れだ…季李』

『嫌ですっ』

『季李…季李…例え、獣になってもお前の名だけは忘れたくない』

何故、駆け寄ったのか。
いや、駆け寄っても駆け寄らなくても同じだったのか。

『兄上っ』

叫んだ時には遅かった。
手を伸ばした時には遅かった。
全てが遅かった。
何もかもが遅かった。
何もかも、全てが…

窓から兄上が飛び降りる。
その姿を追い、窓から身を乗り出す。
だけど、窓から身を乗り出した僕が見たのは月の灯りをうけ、城から駆け出す一匹の
狼だった。


兄上が城から消えてから三月後、父上が亡くなった。

独り取り残された僕には孤独しかなかった。
そう、孤独と新しい母上が僕に教えた残酷な現実だった。

末の王子は成長する毎に兄上に面差しが似てきた。

懐かしい切れ長の涼しげな目も、何もかも、兄上は末の王子の中に息づいていた。

『この子が誰の子かは、あなたにも分かるでしょう?』

兄上の形見を胸に抱き、女は笑う。
綺麗に色づいた唇を開き、ころころと笑う。
僕を嘲笑う。


“お前が欲しいモノをあの女は手に入れた”

誰かが僕に囁く。

“ずっと隠していたんだろう?欲しかったんだろう?”

お願いだ。
もう、それ以上は言わないでくれ。

そう、ずっと欲しかった。

兄弟だからなんて、嘘をついて。

兄弟だから離れないなんて嘘をついて。
血で結ばれているからなんて、しらを切って。

心にあったのは、燻る冷たい炎だ。
きっと僕の命が尽きるまで消えない炎。

欲望という名前の炎。

兄上が欲しかった。
ずっと、ずっと。生まれた時から。
この世の生まれ、初めて目を開け、色彩を見た時から。

兄弟という名の鎖で、縛り付けるほど。
欲しくて、欲しくて。
気が狂いそうだった。

兄上…

龍季(りゅうき)

兄という名ではなく、あなたの名前を呼びたかった。


龍季

龍季

龍季

兄上の名前を呼びながら、手にした短剣で刺したのは愛しい男の子を宿し、その子を
この世に産み落とした女の胸だった。

“人の心を失った時、獣に成り下がるだろう”

白い、兄上が触れただろう柔らかい胸に真っ赤な血が止め処なく溢れ出る。
女の断末魔の叫びは獣の鳴き声に似ていた。
真っ赤に濡れた僕の手は、次第に人の手ではなくなっていく。

「龍季…龍季…龍季…」

生暖かい血は僕の頬を流れ、僕に縋りつく。
女の胸から引き抜いた短剣を放り投げ、僕は立ち上がり、駆け出す。
女の部屋から駆け出し、城の中を駆け抜ける。
飛び出した先には白い月が輝き、僕の行くべき道の先を照らしだしている。

全ては月が導いた。
迷いもなく僕は駆けていた。
薄い闇の中、ひたすら月に導かれるまま、駆けた。
森の中を駆け、草原を駆け。
夕日が照らす大地を駆け。
静寂の中を駆け。
駆け続けた。
幾日も幾日も。
海や山。
空。
そして、大地の果てまで、僕は、あの人を探し求め駆けた。
幾日、駆けたかは分からない。
白い月が照らし出す崖に辿り着いた僕は、愛しい男の名を呼んだ。
何度も何度も、男の名を呼んだ。

喉が枯れ、呼び疲れたその時、僕は背後に感じる気配に振り返った。
銀色の毛を纏う一匹の狼が振り返った先にはいた。
綺麗で、雄々しく、そして、優雅な狼。
その狼が誰なのかはすぐに分かった。

“龍季…兄上”

狼が、まだ人だった頃の名を呼ぶ。
なのに枯れた僕の喉からは唸るような声しか出なかった。
まるで、仲間を求め、長く切なく鳴く声。
その僕の鳴き声に僕の前にいる狼も鳴く。
その狼の鳴き声は、僕の声と一緒だ。

あぁ…やっと

やっと会えた。

駆け寄る僕の体に龍季は体を擦り付けてくる。
言葉は伝わらなくても触れ合う体から龍季が何を想っているかは分かる。

“人の心を失う時、獣に成り下がるだろう”

触れ合う体からは愛していると伝わってくる。
同じ血を受け、同じ男の僕を求めた兄上は人の心を捨て獣になった。
僕を求め、求め続け、手には入らない虚しさに女を抱いた。

僕の代わりに女を抱いた。

もう、いい。
何もかも。
全て。

同じ血を受けてこの世に生まれたが為に、人の心を捨て獣になったのなら。
それは本望だ。

僕も求めていた。
ずっと、ずっと。

兄上に体を擦り付けて兄上の首に自分の首を絡ませる。
低く唸る鳴き声は兄上と同じだ。
そして、鳴き声だけでなく、僕が見詰めた先には、白い月に照らし出された二匹の
獣の寄り添う影があった。





■おわり■




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