… with God …






壊してしまえ

壊れてしまえ…


全て


全て泡になって

消えてしまえ…







ずっと大切だった。


大切で

全てで

生きる意味はその笑顔にしかなかった。



大切で大切過ぎて。

触れ方を忘れてしまったんだ。


大切にし過ぎた宝石は大切にし過ぎた為に触れ方が分からなくて

力加減が分からなくて


俺の手の中で砕け散った。


































雪の降らない街に降った雪は俺の頬や手の上で水に変わった。
さっきまで寒かったのに。
今はもう、そんな感覚すらなかった。

俺はこのまま死ぬのだろうか。


兄さん




この雪は実の上にも降っているのだろうか。


「……実…」


想い人の名前を口にする。

もう、いい。

もう。

俺はこの雪みたいに消えてなくなる。


なんの感覚さえなくなった手に一度だけ触れた実の肌の感触が蘇る。
一年も前の感触なのに。
ほんの五分前に触れたかのように生々しく思い出せる。

その幸せな感触に路地裏の片隅で地べたにボロ雑巾のように横たわった俺は微笑んだ。









































「ゴミかと思ったらガキか」

遥か上から突然、聞こえてきた声に俺は視線だけを向けた。
今、俺の中で動く所はそこだけだった。
しかし、俺の視界に入ってきたのは綺麗に磨かれた汚れ一つない男物の靴だけだった。

「ガキがこんな所で何をしてる?」

近くなった男の声に男がしゃがみ込んだことが分かった。

「……ほ…っと…いて…くれ」

やっと絞り出した俺の声に男は鼻で笑った。

「ガキが何を死に急いでる?」

靴の横にコートの裾が見える。
男は汚い路地裏の地面に高そうなコートの裾を惜し気もなく放り出していた。


放っておいてくれ。

俺は消えるんだ。



「どうしたの?」

「伊原さん、急にいなくなるから探しちゃったじゃない」

男の後ろから賑やかな媚を含んだ二人の女の声が聞こえる。
にわかに漂い始めたむせかえる香水の香りに二人の女が夜の女だということが分かった。

「面白いモノを見付けた」

「ちょっと、やだ。何その子?」

「救急車、呼んだ方がイイんじゃない?血だらけじゃない」

繁華街の路地裏のゴミ箱の横に血だらけで転がってる俺を見て口々に話し出した女二人の
甲高い声はうるさくて、俺は目を閉じた。

「気が変わった。お前ら消えろ」

しばらく女二人の話を聞いていた男は突然、そう言った。

男の声は楽しそうだった。


「…え?急にどうしたの?」

「そうよ、だって今日は…」

男の突然の言葉に女達の声は明らかに不満そうだった。

「聞こえなかったか?ん?俺は今、なんて言った?」


男の声はどこまでも楽しそうだった。


「どうせチンピラ同士の喧嘩よ。だから行きましょう。ねぇ」

さっきは救急車を呼んだ方がいいと言ってなかったか?

余りの変わり身の早さに俺は笑いを堪え切れず、地べたに横たわったまま微かに笑った。

「俺は今、なんて言った?言ってみろ」

口々に不平を並べたてだした女達に男はゆっくりと楽しそうにそう言った。

「…消えろって…」

その楽しそうな声の問いに一人の女は怯えたように答えた。

「耳は聞こえるらしいな。じゃあ、なんで理解できないんだ?あぁ?」

男の声の調子は変わらない。
いや、変わらないどころかさっきより楽しそうだ。

「さっさと消えろ。俺の言ってることは分かるな?」

「…分かったわ。ごめんなさい」

男の念押しに女達の大人しい返事が聞こえる。

「いい子だ。これで二人で遊んでこい」

「え、いいの?」

「伊原さん、大好き」

男が何を渡したのかは大体、想像がついた。

大人しくなった女達の声は瞬時に弾むような声に変わり、俺の耳には「又、来てね」
という言葉と遠ざかるヒールの音が聞こえた。


















女達を帰らせてまでどうしてこの男はここに残っているのか。
俺には分からなかった。

「何が楽しくてこんな所に転がってるんだ?」

俺の方が聞きたい。

なんで、あんたはさっさと行かないんだ。

「…ほ…って…おいて…っ!」

放っておいてくれ。
そう言いかけて俺は咳でむせた。

「死にたいのか?」

カチッというジッポ独特の音とオイルの匂いに男がタバコに火を点けたのが分かった。


そうだ、俺は死ぬんだ。

消えて無くなるんだ。

だから、俺のことは放っておいてくれ…


「……死…に…たい…」

ひとしきりむせて咳き込んだ後、俺はそう呟いていた。

「死にたい?」

男はくくっと楽しそうに笑い、俺に聞き返した。



そうだ

死にたい

消えたい

この雪のように

消えて無くなりたい



兄さん



「そんなに死にたいなら殺してやろうか?」

男はそう言うと俺の返事を聞かずに俺の額に何か固い物を押し当てた。

初めての感触だったがその人工的な冷たさに俺は自分の額に押し当てられた物が
何かを簡単に想像することが出来た。

「おもちゃじゃないぞ。今、証拠を見せてやる」

ヒュンというような音がした。

一メートル先で何か小さな塊が赤色に染まった。
数秒してからその塊がネズミだということが分かった。

そして、そのさっきまで息をし温もりを持っていただろう物体がただの肉の塊になり、
動かなくなったさまは俺を熱くした。


そうだ、俺はああなりたい。

高等な脳も神が創造したという肉体もいらない。

原罪を背負い、常識に縛られ、しがらみを断ち切れない人間なんてモノから解き放たれたい。

こんなに苦しい思いをするのなら感情なんてモノを作り出す脳は停止してしまえばいい。


自由に。

自由になりたい



「…殺して…くれ…」


それで。
その塊で俺を自由にしてくれ。


「イエスが誕生した日がお前の命日か、なかなかおもしろいな」

男は低く笑った。

「何故、死にたい?理由を話したら殺してやる」

男のその条件に俺は微かに笑った。

「…兄を…俺は実の兄を…犯した…」





『貴哉、止めてくれ…お願いだから…』





「…愛してた…大切で…全てで…でも…それは…」

最後に、どうせ死ぬのなら誰かに俺が実を兄を本当に愛していたことを知って欲しかった。
誰でも良かった。

実ることのないこの想いを誰かに聞いて欲しかった。

「……罪だ…人間の禁忌を…俺は…破った…」


だから、殺してくれ。

この罪を犯した俺を殺してくれ。


「禁忌?なんだそれは。それを決めた時、お前はそこにいたのか?」

男の不思議そうな声に俺は戸惑った。

「何故、関係無い奴らが勝手に作ったルールに従わなければいけない?」


関係無い奴らが勝手に作ったルール?


嘲笑を含んだ男の言葉は今までの俺が生きてきた世界には存在しない言葉だった。

「愛しているなら何故、奪わない?」


奪う…?


「誰が罪だと決めた?」

「……でも…」

世間が人々がそんなことを許すはずがない。

「罪だというなら罪にしなければいい。分かるか?世の中、正義が
 勝つんじゃない。勝ったヤツが正義なんだ」

「…勝った者が…正義…?」

男の言葉は全て俺には無いものだった。


勝った者が正義。


それはどんな言葉よりも俺を捉え慰め、癒した。


「死ねば終わりだ。でも、這い上がって勝てばお前の正義が正義に
 なる」


俺の正義が正義?


俺は…

俺は。


勝ちたい。



勝って。

自分の命より大切な実を手に入れたい。


実を奪いたい。

実を

実だけが欲しい。



男の笑う声が聞こえる。



死にたくない。



その男の低い笑い声は勝利に近い者の声のような気がして。



この男のように強くなりたい。

下らない他人が作り出したモノに縛られない強さが欲しい。



「……死に…たくない…」

地べたに這いつくばったまま、思わず俺はそう呟いていた。



まだ、死ねない。

まだ、死にたくない。

実を手に入れるまで。

自分の正義を手に入れるまで。



俺が壊したいのは実でも自分自身でもない。

詰まらない禁忌を生み出した、自分が周りと同調することで安心感を覚える下らない
弱くて小さい神の作り出した常識人とこの世界だ。

この、詰まらない世界を壊したい。

俺の想いを欲望を認めないこの世界を壊したい。



身体に残っている最後の力を振り絞り、顔を上げた俺を見て男は笑った。


「人を殺せるか?」

シニカルな笑顔を浮かべた男は俺の目を見つめ、俺にそう問うた。

その男の質問に俺は最早、戸惑わなかった。

「…殺せる」

「何人でも?」

「…何人でも」

「どんなヤツでも?」

「…どんなヤツでも」

「親でも?」

「親でも」


実を手に入れる為なら何でも出来る。

躊躇いはない。

神すらも壊せる。

全てを壊せる。

壊してみせる。


俺の応えに男は低く笑うと胸元から携帯電話を取り出した。


「…伊原だ。車をまわせ、『美麗』の百メートル先のビルの路地だ」

男はそれだけを言うと携帯を切った。

「お前はどうする?」

「…あんたと…連れて行って…くれ」


俺は俺の正義を勝ち取る。


「それはおもしろい」

男は楽しそうに笑うと俺の腕を掴み、俺を抱き起こした。

男の肩に腕を回し、俺は男の力を借りて立ち上がった。

高そうなコートが俺の血で汚れることも男は構わないようだった。


「…あんた、神を信じるか?」

そんなことを聞いたのは今日がクリスマスだからだろう。
きっと、実は父や母とミサに行っているはずだ。

俺にとって神は実なのにその実が祈るのがイエスだということが何故かおかしかった。
だから、俺は男にもたれ笑った。

「神?信じるさ」

「…信じる…?」


この男が神を信じている?

男の返事が俺には信じられなかった。


「神はいる」


男が嘲笑う。


「お前の横に」


俺の横に?


男の言葉に俺は顔を横に向け、俺を支えている男の横顔を眺めた。

伊原という男は端正な顔に微笑を浮かべていた。

「今日は俺の生まれた日だ」

男はそう言うと俺の方に顔を向け、

「だから俺の正義がこの世の正義だ」

と言って低く笑った。













































あの雪の日の出会いから九年が経った。

イエスと同じ日に生まれた自分を神だと言った男は揺るぎ無い強さで着実に自分の
生きる世界で神に近づいていた。

そして俺はその伊原政貴という名を持つ神の片腕と周りに囁かれるようになっていた。

全てはあの夜から始まった。

そう、あの夜から俺の神は実とこの男になった。










































国産車とは違う広い車内で伊原は優雅に足を組み、携帯電話を耳に当てていた。

母親は片田舎の場末のスナックのホステスで父親はチンピラだと以前、伊原は笑いながら
言っていたがその話が嘘のように伊原には出会った時から高貴な人間の持つ優雅さがあった。

そして、その優雅さは歳を取るごとに増し、伊原の元から持つカリスマ性と調和し
一種独特の雰囲気を醸し出していた。

きっと、伊原を初めて見た人間は伊原の出生のことやこの男がやくざだということを
信じられないだろう。



「和久井の狸ジジイ、息子を総理大臣にしただけでは気が済まないらしい。
 今度の選挙に本気で孫を出す気みたいだぞ」

電話を切った伊原はそう言って低く笑った。

「噂だけではなかったようですね」

「君にも悪い話じゃないだろうと笑いやがった」

「いかがなされるつもりですか?」

「親父に話は通してあるとも言っていたな。手付に三本ぐらい渡してやれば文句は
 ないだろう」

「はい。用意させます」

一本が百万だったのは遠い昔の話だ。

伊原の正義が俺達の生きる世界の正義に近づくたびに百は千になり、千は一億に変わった。



『政府の発行する只の印刷物がこの世の全てを動かしている。
 人間とはおもしろい生きもんだと思わないか?』


伊原の言葉は全てが真実だった。


「和久井のジジイの件はお前に任せる。それより今日、美希はどうだった?」

政界の陰の実力者と自分の愛人の話を同じレベルで話す。
そんな伊原にさえ、俺は慣れた。

伊原にとって政界の陰の実力者と自分の愛人は同じ位置にいた。

「今日は近くのブックストアに出掛けられただけです。ブックストアの店員と
 書籍のことで十分程、会話をされたくらいで変わったことはありません」

伊原には複数の愛人がいた。
しかし、伊原が自分の私生活にまで侵入を許したのは清水美希が初めてだった。

自分と離れている間の相手の行動を見張らせ逐一、報告させるまでしたのは清水美希が
初めてだった。

それほどまでに伊原は清水美希に拘っていた。


「明日から三日間、『翆明』に行く。美希を連れて行く」


『翆明』は料亭旅館だ。

詳しい経緯は分からないがそこの離れは伊原がいつ来てもいいようにと一年中、伊原の為に
空けてある。

そこに伊原は一年に一度ふらりと出掛け独りの時間を過ごすということを俺と出会う前から
していたらしい。

そこで独りで伊原が何を想い、何を考えるのかは分からない。

しかし、其所は伊原の唯一の聖域で其所を知る人間は伊原の側にいる人間でもごく一部の
人間に限られていた。

その聖域に清水美希を連れて行くという伊原の言葉は俺を驚かせた。

そこまで伊原は清水美希に拘っている。

独りの人間に拘り、縛られる。

それを執着という言葉で人々は片付けてしまうのかもしれない。
愛なんかではなくて執着だと。

しかし、所詮、愛も執着も俺にしてみれば大差はない。
むしろ気が狂わんばかりの激しさで相手を求める執着の方が俺には愛なんて甘ったるいものよりも
確かに思える。

相手を包み込み相手の幸せを願うなら俺は相手を引きずり込み供に堕ちたい。

そう、実と供に堕ちて行きたい。

実が俺のマンションを出て行ってから二月、実の行方はまだ分からなかった。



「お前の探し物はまだ、見付からないのか?」

実に想いを馳せ、黙り込んだ俺は伊原の問いにすぐには答えられなかった。

「…はい」

俺の短い返事に伊原は苦笑するとスーツのジャケットの内ポケットから一枚の紙切れを
取り出し、俺に差し出した。
俺はそれを受け取った。

その紙切れには岡山県の聞いたこともないような町の名前が記されていた。


「明日から三日間、有給をやる。そこにいるのがお前の探しモノかどうか自分の
 目で確かめてこい」

伊原のことだからそこにいるのは間違いなく実だろう。

実を捜すのにどれだけの金が動いたのかは分からない。
伊原のことだから、きっとその数字が俺に知らされることは一生ないだろう。


微笑みながら人を殺す男は微笑みながら人を救う。

殺すか救うか。


九年前のあの日から変わらず伊原という男に迷いはなかった。








































伊原を降ろした車は俺を乗せ、夜の街を走っていた。

「ご自宅でよろしいですか?」

車を運転している成瀬の確認の言葉にいつものように肯定の返事を返そうとした俺は
ふと思い立ち、行く先の変更を告げた。


































「すぐに戻る」

「はい」

成瀬の返事に俺は車を後にした。

月日は明らかに過ぎていた。
九年前にあった『美麗』はすでになくなり、代わりに今は横文字の名前の看板がかかっていた。

夜の街の入れ替わりの激しさはどこか俺の生きている世界に似ていて柄にもなく感傷的に
なっている自分に俺はあの日と変わりない路地裏に立ち微かに笑った。

全てが始まった場所は九年前と何の変わりもなかった。

全ては此処から始まった。

そして俺は今、あの日の伊原のように綺麗な革靴を履き、上質なコートをはおって此処に
立っている。

ジッポで火を点けた煙草を一口吸うと足許にあの日の俺が蘇ってきた。

まるでボロ雑巾のように地べたに這いつくばり、死にたいと願っていた弱い自分。

そんな自分を見下ろすと足許の俺は俺を見上げてきた。



『…あんたは?』



―俺はお前だ。



『死にたい』



―死ねば実は一生、手に入らない。



『強くなりたい』



―なれるさ。



『実を手に入れたい』



―実は手に入る。



コートのポケットの中で俺はさっき、伊原に渡された紙切れの存在を確かめた。

俺はもう、此処に這いつくばっている何も持たない弱い俺じゃない。

そう、あの日から全ては始まった。

あの日から。

あの日の自分と決別する為に自分の原点を確かめる為に俺は此処に戻ってきた。

親指と人指し指で掴んでいるフィルターぎりぎりの煙草を最後に一口吸うと俺はそれを
路地裏に落とし、靴で踏み潰した。

過去の自分に背を向け、過去の自分を連れ、通りに一歩、踏み出す。

そんな俺に聞こえてきたのはあの日の俺の問掛けだった。



『…あんた、神を信じるか?』



俺は振り返らなかった。



あぁ、信じる。

今なら信じられる。

神はいる。



『何処に?』



何処に?


俺は苦笑いを浮かべた。


何処に?


俺の横に。

そう。

俺の横に。



伊原という名前で神は存在していた。

苦笑を浮かべたまま暗い路地裏から明るい繁華街の通りに出る。
待たせていた車に乗り込もうと車のドアを開けた俺は自分の手に落ちてきた一片の透明な
結晶に立ち止まった。

星の見えない夜空を仰ぎ見る。

そんな俺の目に映ったのは雪の降らない街に九年振りに降った雪だった。






■おわり■