… 泡沫 … (渡瀬視点)










始まりはただの好奇心だった。

数ある遊郭の中の一つ“春暉楼”その男娼妓ばかりの遊郭で大見世の娼妓にも引けを
とらないほどの娼妓が現れたとの噂に興味を引かれ、春暉楼を訪ねたのは冬の気配が
残る春先の肌寒い日のことだった。

遊郭なんてものは所詮、かりそめの夢を見るところだ。
金で偽りの愛を買う。
娼妓との駆け引きは面白いがそれだけのことだ。
そう思っていた。
紫に会うまでは。


『珍しい通り名だな』


春暉楼の紫の部屋で酒の酌をする紫に花などの娼妓名が多い中、紫という色一字の通り名を
珍しいと言った俺に紫は艶やかに微笑んだ。


『茜さす紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る』


『額田王の歌か』


『はい』


紫が詠んだ歌は額田王が大海人皇子に詠んだ歌で、その歌の紫野から通り名をとったと紫は
言った。


『その歌が好きなのか?』


なぜ、その歌なのか。
理由を知りたくて問いを重ねる。


『今は他の男のモノだけどあなたを愛していることは心の奥深くに刻まれていて
 決して消えない。あからさまな恋よりもそんな恋の方が粋だと思いませんか?』


その俺の問いに紫は艶やかな笑みのまま答える。


『あからさまな恋よりも秘めた恋か』


歳は十六だと聞いた。
なのに十六とは思えない台詞に艶を滲ませた誘う視線はいっぱしの娼妓の色香があった。


『そんな男がいるのか?』


客かそれとも客以外の男か。
興味をそそられ、大見世の娼妓の造りモノじみた美しさとは違う生々しい美しさを持つ紫の顔を
見詰める。


『あなたといる時はあなただけのモノ。それではご不満ですか?』


そんな俺を真っ直ぐ見詰め返す紫の目は挑むように微笑っていて十二も下の娼妓に客としての
度量を試されていると気付く。


『ならお前に習って俺もお前といる時はお前だけのものになろう』


しかしそれに不快感はなかった。
いや、むしろ不快どころか久し振りに手応えのある娼妓に出会えたことが楽しくなって俺は
心から笑った。

逃げられれば追いたくなり、心は他の男のモノだと言われれば自分のモノにしたくなる。
それが男の性なのだろう。

世を儚む憂いを帯びた微笑みに一片の本心も見せない狡さ。
人間臭く生々しい美しさと手にしっくり馴染む肌。
女の体とは違い柔らかさは欠片もない。
なのに紫の体はまさに男に抱かれる為にある体で俺は紫を抱く度に紫への執着を深めていった。
しかし、相手は十二も下の娼妓だ。
そんな相手に心全てを傾けるなんてことは有り得ないと思っていた。
そう、あの日までは。

紫の馴染みになって一年。
初めて春暉楼を訪ねた日と同じ春先の肌寒い日。
俺が待つ部屋に現れた紫は今まで見たことのない紫だった。
見慣れた憂いを帯びた笑みには狂気じみた熱が潜んでいた。


『何かあったのか?』


まるで今盛りの花がむせかえる芳香を放っている。
そんな息を呑むほどの色香を隠しもしないで紫は俺の側に来ると俺の手に自分の手を重ねた。


『…抱いて』


『紫…?』


『今すぐ抱いて下さい』


俺の問い掛けには応えず紫は俺の手を自分の頬に導く。
そのいつもと様子の違う紫にそれでも俺は欲望を刺激され紫をその場に組み敷いた。


『もっと…っ…もっと…っ…奥まで…っ…挿れてっ』


何かに耐えるように紫は俺を求めた。


『もっと…っ…もっと…っ…』


“欲しい”と泣きそうな声で呟きながら俺に縋る。
散々、俺を飲み込み喘ぎ乱れた紫は二度目に果てた後、気を失うように眠ってしまった。
そして、眠ってしまった紫を褥に運び、この一年間で見慣れた紫の寝顔を見ながら俺は悟った。

紫の熱情を孕んだ目を知ってはいた。
だがそれは客に自分を追わせる為の嘘かもしれないと思っていた。

しかし…

あの熱情を孕んだ目は現実だった。
そう、紫があの熱情を孕んだ目で見詰めている男は現実に存在していた。

紫を起こさないように注意しながらそっと紫の髪を撫でる。


『…そんなに惚れてるのか…?』


心の奥深くに刻んで誰にも触れさせないくらいに。
男の痕跡に怯えるくらいに。

薄闇に包まれた部屋の中、静かに眠る紫の顔は年よりも幼く見える。


『憐れなもんだな…』


お前も俺も。

紫の寝顔を眺めながらふと洩らした言葉に自分で驚く。
そして俺はそんな自分を苦く笑った。















あの日を境に朧気だった紫への執着ははっきりとした輪郭をもつようになった。
そして、紫に執着する理由からも俺は目を背けられなくなっていた。

紫に執着する理由。
それは俺が紫の中に自分を見ているからだ。
俺と紫は似ていた。
“幸福”になることが怖いんではなく“幸福”が怖い。

幸福の中でいつかは訪れるだろう絶望に怯えるなら絶望の中にいる方がいい。
そんな愚かな想いしか願えない。

憐れな紫と俺。

だからこそ俺は紫を求めていた。

愛なんてものはいらない。
いや、知らない。
だから愛なんてものはなくてもいい。

そう

愛はなくてもいい。

それを凌駕する代わりの感情があれば。
愛と対局にありながら愛に似た感情。
それは憎しみだ。
深く、深く刻まれた憎しみは愛よりも確かで確実だ。
だから。
紫が己の心に刻んだ男への思慕よりももっと深い憎しみを刻めばいい。

そう。
深い憎しみを。

絶望で結ばれた絆でも構わない。
紫を縛ることが出来れば。
俺はそう思い始めていた。




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2009.4.29