… 泡沫(うたかた) …










空から容赦なく降り注ぐ雨の冷たさに俺はゆっくり目を開けた。
もうどれ位、ここにこうやって座り込んでいるのか。
冷え切った体の感覚はなく撃たれた胸の痛みさえ今はもう感じない。
どうせろくな生き方をしてこなかったんだから野良犬のように野垂れ死ぬ覚悟は出来ていた。

だけど

「…淳史(あつし)…」

人通りのない暗い通りでビルの壁に凭れあいつの名前を呟きもう一度、目を閉じる。
と俺の瞼の裏には淳史(あつし)の姿が浮かんだ。


『あんたは買ったりしないの?』

『てめぇが卸した商品(モノ)を買うことはないな』

『ふぅん』


あれはいつだったか。
そうだ。
淳史が初めての客をとってからすぐのことだった。
いつものように親に売られた子供を娼館に渡した後、寄った“春暉楼(しゅんきろう)”で
俺の姿を見つけた淳史はまるで子犬のように俺の所に駆けてきた。


『なんだ?俺に買って欲しいのか?』

『自惚れもほどほどに。その内、あんたが買いたくても買えないようになるから』


淳史はからかった俺に口を尖らせ言い返した。


『いい心構えだ。その心構えで精一杯、稼ぐんだな』

『あんたに言われなくてもここで一番になってやるから』


そんな子供だったのに。

十二で俺に自分を高く売ってくれと言ってきたガキは十五で水揚げを済ませてから一年で
俺に言った通り春暉楼一の売れっ妓になった。


子犬のようなあどけなさは残したまま、淳史は酷薄で憂いを帯びた娼妓になっていった。

そんなあいつの姿を一目見たくて何かにつけて春暉楼に寄るようになったのはいつからだったか。
そして、その自分の感情が自分の中の掟を破るものだと気付いたのはいつからだったか。

いや、全ては初めから決まっていた。
あいつに自分を売って欲しいと言われた時から。

自分が売った商品を買いたいと思ったのは初めてだった。

あいつを買うために、あいつを身請けするために金が必要だった俺はがむしゃらに力を
拡げていった。
いつか淳史の一番客、渡瀬(わたせ)と向かい合わなければいけない日が来ることを
分かっていながら。















『ずっとあんたを待ってた。いつかあんたが抱いてくれるって。あんただけを
 ずっと待ってた』


初めて淳史を買った夜、淳史は熱を帯びた目で俺を見つめそう言って俺に縋り付いてきた。
俺の体に絡み付く腕に足に俺は自分の卸した商品は買わないという自分の中の掟を破り、
溺れていった。


『あんたとだったら死んでもいい』


未来(さき)の幸福を願う台詞を言わないのは未来があるかどうか分からないからか、
それとも“淳史”だからじゃなく娼妓“紫(むらさき)”として今のこの時がかりそめだと
俺に分からせるためか。


『あんただけ…こんな風になるのはあんたに抱かれてる時だけだ』


自ら腰を揺らめかせながら淳史は掠れた声で言う。
その掠れて濡れた声に俺は言葉は何の意味も持たないことを知る。

同じことを何人の男に囁いていても、“あんただけ”という言葉が嘘だったとしても構わない。
俺の下で喘ぐ淳史が淳史ではなく紫でも構わない。
騙されて手酷く裏切られても構わない。
あいつになら何をされても。

強引に拡げた力は金以外のモノも運んできた。


『早川(はやかわ)、しばらく身隠せや』


ここからは離れられない。


『田所がお前狙とる』


離れられない。
淳史がいる限り離れられない。

ここから離れられない。



















淳史の所に通うようになって半年。
いつもよりも激しく俺を求めた後、淳史は俺に背中を向けた。


『俺、渡瀬さんに身請けされることになったから』


感情のない声だった。


『笑えねぇ冗談だな』


俺は自分の耳を疑った。


『冗談じゃないよ。だから、もうあんたはいらない。目障りだから俺の前から消えろよ』


冷たい声だった。


『…分かった。お前が消えろって言うなら消える。だから』


“最後にもう一度だけ顔を見せてくれ”


そう言った俺に淳史は振り向き、薄っすらと微笑った。




















その日を境に俺は場末の女郎屋に入り浸るようになった。
人通りも少ない暗い道を通り、この世の終わりのような場所で薬漬けの女を買ってはただ毎日を
やり過ごす。
唯一、死なずにいるのは淳史が生きているからでそれ以外に理由はない。
そんな毎日を過ごしていた。
そう、今日までは。


『早川だな?』


いつものように賭場で稼いだ金で酒を呑み、女を買いに行く途中だった。
目の前に立ち塞がる男の口から出た己の名前に俺は足を止めた。


『あんた、誰だ』


誰だとは言ったが誰かは想像がついた。


『渡瀬だ』


乾いた低い声は冷静だった。


『たかが俺ごときにわざわざ田所組の代貸が出て来るとはな』


苦笑いを浮かべる俺に渡瀬も又、苦笑を浮かべた。


『あんただって俺を待ってたはずだ』


歳は二十九で俺より六つも下なのに一つの組の代貸だけあって渡瀬には俺でさえ一瞬、
たじろぐほどの威圧感があった。


『待ってた?そうだな。確かにお前を待ってた』


自棄に笑い吐き捨てる。
吐き捨てたと同時に懐からハジキを出し、渡瀬に向けた俺に渡瀬も又、懐から出したハジキを
俺に向けた。


『相討ちってのも悪くない。あんたと俺、どっちの死に紫は泣くんだろうな』


紫…

そうか。
渡瀬は“紫”しか知らない。

淳史を知らない渡瀬に俺は微かな優越感を感じ笑った。


『さぁ、早く撃てよ』


引き金の指に力を込め渡瀬を挑発する。


『言われなくてもあんたは俺が殺してやる』


俺の挑発に渡瀬も笑う。

一瞬の静寂の後、俺達の耳には互いに引き金を引いたハジキの発砲音だけが聴こえた。

体に受けた衝撃に俺は膝からその場に崩れ落ちた。
そして、崩れ落ちた俺の側に渡瀬は歩み寄って来た。


『なぜだ、なぜ…』


俺を見下ろし怪訝そうに聞く渡瀬に俺は笑った。


『早く行けよ…お前が捕まったら淳史、いや、紫が悲しむ…』


『…くそ』


俺の言葉に渡瀬はくそと吐き捨て俺に背中を向け歩き出した。


淳史

これでいい。
これで。

渡瀬に向けたハジキに弾は込めていなかった。

渡瀬が死ねば淳史が悲しむ。
なんてのは言い訳かもしれない。
だけど、せっかく淳史が掴んだ未来を潰したくはなかった。


『あんたはいらない』


そうだな。
お前が俺をいらないって言うんなら俺はいらない。

渡瀬が去ってからどれくらい経ったかは分からない。
降り出した雨は益々、勢いを増し俺を濡らす。
もう体の感覚はない。


『ずっとあんたを待ってた。いつかあんたが抱いてくれるって。あんただけを
 ずっと待ってた』


薄れる意識の中、俺の目の前には綺麗に微笑う淳史がいる。

「淳史…」

その淳史に触れたくて最後の力を振り絞り俺は手を伸ばす。
すると俺の手はしっかりと握り返されその幸福感に俺は微笑った。






■おわり■