… タイムリミット …










「離せっ!」

その言葉と一緒に掴んだ腕を振り解かれる。


ここで逃げられたらお終いだ。


まるで強迫のように頭の中で響いてくる言葉のままに俺は実(みのる)の腕を
もう一度、掴んだ。

「俺の気持ちはもう、知ってるだろ?」

ホテルの壁際に追い詰め、口の端だけを持ち上げ微笑う。

そんな余裕の態度を見せながら俺に余裕は微塵も無かった。


「離せ!ふざけるな!」

鋭い、まるで俺を切り刻まんばかりに睨み付ける瞳さえ今の俺には媚薬だ。

「離さない。あんたが逃げたら俺はそこの窓から飛び降りる」

「なに、馬鹿なこと言って…」

俺の目の中の狂気に気付き言葉が途切れる。
俺を睨み付けていた瞳は訝しげなものに変わった。

「馬鹿じゃない。逃がさない。今日、あんたを抱けなかったら俺は狂う。だから…」


俺を助けてくれ。

兄さん…


喉元まで出かかった言葉は貼り付いたまま、声にはならなかった。

「…お前のせいで、こんな…こんなこと気付きたく無かった…」

掴まれた腕はそのままに実の身体が崩れ落ちていく。
その身体を追うように俺もその場に蹲るる。

「俺と一緒に行こう。嫌だと言っても連れて行く」

「…行けない…」

まるで泣いているような声は弱々しい。

「勘違いするな。頼んでるんじゃない、これは命令だ」


この日の為に生きてきた。

家を飛び出して10年が経った。
血反吐を吐くような薄汚い世界でのし上がる為には何でもした。
何でも出来た。

この日を思えば何でも耐えられた。

全ては実を手に入れる為に。



「どうしても嫌だと言うのならあんたを殺して俺も死ぬ」

死と言う言葉に反応して実の顔が上げられる。
こんな時ですら実の瞳は美しい。

「……どうして、お前が死ぬんだ?お前は何も悪くない…悪いのは…」

苦しそうな笑顔を浮かべた実の手が俺の頬を撫でる。

「あんたは何も悪くない。あんたの結婚を潰すのもあんたをさらって行くのも俺だ」

「……貴哉(たかや)…貴哉、貴哉!」


実の頬を涙が伝う。
その涙は俺の為だけのものだ。
俺の名前を呼ぶ声さえも。


「あんたは無理矢理、俺に攫われるんだ。あんたは何も悪くない。だから、
 一緒に行こう。兄さん」

10年間、封印していた呼び名を口にし、実の身体を抱き寄せる。
抱き締めた身体は10年前と何も変わってはいなかった。


初めて実を抱いたのは18歳の時だった。
たった一度だけ。

その一度だけの契の次の日、俺は家を飛び出した。























「…あっ…あっ、あ…!」

何度も何度も実に自分の欲望を打ち付ける。
10年間の想いのたけをぶつけるように。

「……く…っ…」

きっと悦びよりも苦痛の方が大きいだろうセックスにそれでも実は俺にしがみ付いてくる。

「一緒に、一緒に達こう…」

切迫した俺の要望に実は切なげな笑顔を浮かべ、何度も頷いた。


















「…雨…?」

雨かと問われホテルの窓の外に目をやる。
どんよりとした雲は立ち込めているものの雨は降っていなかった。

「…いや、降ってない」

枕を背に当て少し上体を起こし煙草をふかしながら答える。

「…そうか…」

俺の胸に凭れ、実は静かに答えた。

「後、1時間したらここを出よう。部下を下に待たせてる。俺のマンションに行って、
 二人で暮らすんだ」

そう語っている俺自身が夢物語のようだと思った。
実と二人、誰にも邪魔されず生きていく。
それは夢のような話だった。

「…それはいつ、入れたんだ?」

「今の世界に入ってすぐだ。今時、こんなものを入れる奴は少ないらしい」

背中一面に2匹の龍を頼んだ俺に彫師はそう言った。
1対の龍はお互いに絡み合い、もつれ合いながら天を目指している。
俺の背中の2匹の龍は同じ血を持つ俺と実だ。
背中に痛みが走る度に俺は実への執着を深めた。


実を手に入れる為なら両親さえ殺しても構わないと思った。



「…俺を独りにしないでくれ…俺より先に死ぬな。それだけ誓ってくれ。
 それだけ誓ってくれるならお前と一緒に行くよ」

俺の住む世界を悟った実は俺の命を危惧している。

「あんたを独りになどしない。俺が死ぬ時はあんたも道連れだ」

窓の外の雲のような煙草の煙は呆気なく消えていく。

「お前の部下に頼んでおいてくれ。もし、お前が死んだら俺を殺してくれるように…」

微かな空調の音だけの部屋に実の少し笑みを含んだ声が響く。

「そんなことはしない。あんたを他人には触れさせない」

指1本たりとも他人には触れさせない。
触れる奴は全て殺してやる。

「…自殺じゃお前と一緒の場所には行けない。自殺を神は許さない」

こんな時まで実は神を信じている。
俺達は幼い頃、洗礼を受けた。

「神なんてものはいない。そんなもの信じない」

信じられるのは実と二人でいるこの時間だけだ。

「…そうだな…今更」

続けようとした言葉はキスで塞いだ。

「俺と一緒に暮らすんだ。あんたを独りにはしない。もし、あんたが先に死んだら
 すぐに後を追ってやる」

神なんてものは信じない。
血族間の愛を罪だという神を俺は16歳の時に捨てた。
自分の弱さを守るための偶像崇拝は馬鹿な奴らだけがすればいい。

俺達の邪魔をするのなら神であっても滅ぼしてやる。


「…貴哉…連れて行ってくれ」

静かで穏やかな微笑みだった。
俺はその笑顔を永遠に見ていられるとそんな夢物語みたいなことをその時は信じた。

























俺のマンションに実を攫ってから3日後、実は俺の前から消えた。


―貴哉、愛してる。だから、探さないでくれ―


短い実からの手紙は生まれて初めて貰った手紙だった。

本当は死ぬつもりだったのだろう。
だが、死ななかったのは俺の為だ。
自分が死ねば俺が後を追う。
自分が姿を消せば僅かな生きてる、出会える可能性を求め俺は生き続ける。


それは残酷な賭けだ。

実の死体が出てこない限り、俺は実を求め生き続けるしかない。


とてつもなく残酷な賭け―


だが、それは同時に実への鎖にもなる。
俺を死なせない為に実は死ねない、俺が生きている限り実も生きている。
それはメビウスの輪のように表裏一体だ。
どちらかの命が尽きるまで終わらない永遠のゲーム。


俺を試してるのか?兄さん。
俺の想いがどこまで本物なのか。
どこまであんたを追いかけられるのか。


本当に見付けて欲しくないのならこんな物は残さない。
黙って姿を消せばいい。
追いかけて欲しいからこんな物を残した。

血が繋がっているからこそ俺には分かる。
あんたの望むものが。

いいさ、好きなだけ逃げればいい。
今の俺は昔のような無力なガキじゃない。
どこまでも追いかけて必ず捕まえてやる。
タイムリミットはどちらかが死ぬまでだ。
追いかけて捕まえて永遠に繋いでやる。

静かな部屋で独り、口の端だけを上げ微笑う。

「待ってろ…」

俺はそう呟くと自分の手の中にある手紙を握り潰した。






■おわり■




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