… 
pleasure … 










一人で住むには広い3LDKのマンションを不動産会社の営業をしている友人に
探してもらったのは二ヶ月前のことだ。
勿論、一人で住むには広いマンションを選んだのはいずれ俺が一緒に住む為という
理由がある。
本当は先月、引越しをするつもりだった。
急なひと月の出張さえなければ。

俺の荷物なんてたかがしれている。
だから、少しずつだが美月のマンションには俺の荷物が運ばれている。
二人で共有する予定の空間に自分の荷物が少しずつ増えていくことはまるで美月に
対する俺の想いと重なっているようで何故だかおかしかった。

今までの恋愛では考えられない自分の行動にこれじゃまるで恋人に夢中で周りを
見る余裕もない只の男だと嘲笑う冷静なもう一人の自分がいる。
しかし、初めて味わう一種盲目的な恋に溺れきっている俺はそんな冷静な自分に
憐れみさえ憶えていた。

相手の未来を縛ってでも、自分の未来を差し出してでも躊躇わない恋は今、俺の
手の中にあった。



























「まるでミュウが家主みたいだな」

いつものようにワインより俺を酔わす美月を味わった夜から新しい家族の名前は
ミューズに決まった。
そして、あの夜から一週間経った今、ミューズという名前は俺達の間でいつしか
ミュウという呼び方に変わっていた。
初めて二人で創造したものが仔猫の名前だというのも俺の今までの恋愛では
初めてのことだった。

「街を歩くとミュウの物ばかりが目に入って」

ミュウの物が増えたマンションで恋人はキッチンに立ち、コーヒーを入れている。
そのコーヒーの香りに誘われた振りをして俺は美月を後ろから抱き締めた。

芳ばしいコーヒーの香りが俺が美月に贈ったオーデコロンの香りに変わる。
身に纏う香りにさえ俺の存在を残しておきたい為に俺好みの香りを贈った。
甘い中にもスパイシーな香りを含んだオーデコロンは美月の肌に馴染んで美月の
体温が上がると独特の香りで俺を魅了する。
その香りを楽しみたくて恋人の項に唇を滑らすと恋人はクスクスと笑い出した。

「光輝さん、くすぐったい」

唇を耳の後ろに移動させる。
そして、俺は美月の身体の前に回した手でシャツ越しに胸の小さな粒を撫であげた。

「…光輝…さん…っ…」

俺の指の動きを止めようと美月の手が俺の手に重なる。

「…コーヒーは…?」

「いい香りだな」

「だって、貴方の好きなジャーマンブレンドだから」

ジャーマンブレンドのレギュラーコーヒーにゆっくりと湯を注ぎ、細挽きのコーヒー豆
から抽出される褐色の液体でカップが満たされるのを待つ。

心地よい空間に心地よい香り。
そして、何よりも心地よい恋人のしなやかな身体。

俺の人生を彩るものはこの3LDKの空間に全て存在していた。


「コーヒーのことじゃない。お前のことだ」

耳元で囁きながらシャツのボタンを外しその隙間から手を忍ばせる。

「……っ…」

俺の冷たい手が美月の体温を吸い取る前に恋人の身体がビクンと俺の手に
反応する。

「…ねぇ…コーヒーは…?」

「たまには冷めたコーヒーもいいと思わないか?」

「…冷めたコーヒーなんて美味しくないと思うけど…?」

止まない俺の指の動きに声を震わせ呟く恋人の足元をミュウが小さく鳴きながら
じゃれつく。

「…ミュウが…」

もう二人の夜は始まろうとしているのになかなか陥落しない恋人の顎を優しく掴む。

「俺とお前がじゃれてると思ってるんだろう」

顔を傾け、恋人の瞳を見下ろす。

「…ちが……――」

少し赤みをおびた目元で俺を見上げながらまだ言葉を紡ごうとする唇を俺は
苦笑した後、自分の唇で塞いだ。

























『本当にミュウは貴方に夢中みたい』


俺達が触れ合う度に美月に嫉妬するかのように軽く爪を立てるミュウに美月は
困ったように微笑んだ。


『お前はどうなんだ?』


お前は俺に夢中じゃないのか?
ミュウに嫉妬しないのか?


苦笑しながら俺が仕掛けた言葉の駆け引きを恋人は


『さぁ…』


という曖昧な言葉と微笑みでかわした。





























物事は簡単には進んではくれないらしい。
引っ越しは最終段階を迎え、残るは俺の身体一つになった。

しかし、そんな時に限って出張を命じられる。
楽しみは焦らされるほどに与えられた時に深い喜びを感じるのだろうか。

新幹線の窓に映る自分の顔を眺めながらそんなことを考える。
他人と生活を共にし、あまつさえ自分の未来を差し出すことを楽しみだと考えている
新幹線の窓に映る男はどうしようもなく滑稽で愛しい。

最終の新幹線で帰ることは新幹線に乗る前に美月に知らせた。
勿論、今日から俺の“帰る”場所は俺の未来を捧げた魅惑的な恋人と芸術の女神の
名前を付けられた恋人に敗けないくらい魅惑的な仔猫の待つマンションだった。


駅に降り立ち、タクシーに乗り、最近、言い慣れてきた行き先を告げる。
辿り着いた真新しいマンションの前でタクシーを降りる。
そのマンションのエレベーターに乗り、辿り着いたドアの前で合鍵を取り出し、鍵を
開ける。
ドアを開け、中に入ると美月がリビングから姿を現した。

「お帰りなさい」

既に時間は深夜に差し掛かろうとしている。
パジャマを着た恋人の出迎えの言葉に

「ただいま」

と返し、靴を脱ぎ廊下に上がる。

「ミュウは?」

「もう、眠ってるよ」

短いやり取りを交わしながら二人で寝室に入る。
恋人を先に寝室に入れた俺は寝室のドアを後ろ手に閉めると荷物を適当な場所に
置き、俺の贈ったオーデコロンの代わりにボディソープの甘い香りを纏っている恋人の
身体を抱き締めた。




next
novel