… 幼い君 … 後編











『和実は俺の王子様だよ』


卑怯だと思った。
小さな頃から晃弘(あきひろ)は、そう言って僕を散々、甘やかせてきたくせに。


『何が食べたい?王子様』


生クリームの上にチョコレートをかけたような晃弘の甘い笑顔。


『どこにお連れしましょうか?王子様』


バニラアイスクリームのような晃弘の甘い言葉。

甘い笑顔に甘い言葉。
晃弘の甘さにすっかり慣れきった僕を置いて晃弘はイギリスに行くと言った。


「どういうこと?」

僕の大学進学のお祝いに晃弘と同じ腕時計をプレゼントしてくれたのはついこの前のことなのに。


『ほら、お揃いだ』


そう言って、笑ったくせに。

「和実と会えなくなるのは寂しいけど、仕事だからね」

何度も来たことのある晃弘のマンションは相変わらず余計な物が何もない。

「晃弘と会えなくなるなんてイヤだ」

さっきまで楽しかったのに。

「二度と会えなくなる訳じゃないさ。休みには日本に戻って来るよ」

あんなに僕が大事だって言ったくせに。

僕が大事だって言った時と同じ口調で晃弘は僕を置いて遠くに行くと言ってる。
そんな大人な晃弘に無性に腹がたった。

「仕事と僕とどっちが大事?」

当然、僕だと思って聞いた問いに晃弘は困ったように笑った。

「和実が大切だよ。とても」

ほら、やっぱり。

「だったら…」

だったら、僕の側にいてよ。

そう言いかけたのに。

「でも、仕事をしないと和実と食事に行けないし、和実にプレゼントも出来ない」

どうして、こんな大切な話をしてるのに、晃弘は冷静なんだろう。
晃弘がいなくなることは僕にとって生きるか死ぬかの問題なのに。
それぐらい大切なことなのに。

「プレゼントなんていらないっ」

余りにも冷静な晃弘に腹がたって僕は泣きそうだった。

「和実はまだ子供だから分からないんだよ」

「もう子供じゃないっ」

「和実…」

僕を見る晃弘の目は困らせないでくれと言っていた。

「会社なんて辞めて!イギリスになんか行かないでっ」

泣きそうになるのを我慢しながら晃弘を見上げる。
それでも晃弘は困ってるように笑ってるだけだ。

「なんでもする!僕、なんでもするからっ」

だから、行かないで。

晃弘の腕を強く掴み、真っ直ぐ見つめる。
そんな僕の頬を晃弘の手がそっと包んだ。

「なんでもなんて軽々しく口にするもんじゃないよ」

子供に言い聞かすような口調に心がささくれだす。

「軽々しくなんて言ってないっ」

僕は本気だ。

だから、その僕の本気を分かって欲しくて、僕は必死になった。

「本当に何でも?」

さっきまで困ったように笑っていた晃弘の顔が真面目な顔に変わる。
見たことのない晃弘の顔に僕は頷くことも何かを言うことも出来なかった。

「俺が何を望んでいるか知ったら和実は俺を嫌いになる」

真面目な顔が苦しそうな笑顔に変わる。

僕が晃弘をキライになる?

晃弘をキライになるなんて考えたこともないのに。

「キライになんてならない」

何があっても晃弘をキライなんてならない。
僕は意地になって言い切った。

「本当に?」

僕に問い返す晃弘に強く頷く。
すると頷いた僕の顎に晃弘の指が触れた。
その指に導かれるままに僕は上を向く。
そして上を向いた僕は晃弘の端正な顔を間近で見た。

キスだと気付いたのは、晃弘の唇が僕の唇に触れて数秒してからだった。
キスなんて生まれて初めてだった。

強く優しく抱き締められて、何度も何度も晃弘の唇が離れては触れる。
そんなキスに最初の驚きが消えて体の力が抜けた頃、キスは深くなった。

「…ん……」

どんどん何も考えられなくなっていく僕の背中を晃弘の手が撫でる。
頭を撫でられたり、頬をつねられたり。
軽く背中に手を添えられたり、腰に手を回されたり。
今迄、晃弘に触れられたことは十三歳の時に晃弘と出会ってから何度もあった。
でも、今の晃弘の触れ方は今迄の触れ方とは違っていた。
どこがどう違うかって言葉で説明は出来ないけど…
あきらかに今迄の触れ方と違うと感覚で感じた。

晃弘の舌が僕の舌に絡まったまま、何度も吸われる。
どれ位そんなことを繰り返されたか分からなくなって、全身から力が全部、抜けかけた頃、
晃弘の唇は僕の唇から離れた。

「…和実」

僕の名前を呼ぶ声さえも今迄とは違う。
その声に反応し、晃弘の顔を見詰める。

晃弘は僕の知らない顔をしていた。

「どうして…」

どうしてキスなんて。
そう聞こうとした僕の唇を晃弘の指が撫でる。

「和実を愛してる。それも恋愛の対象として」

恋愛の対象。

突然のキスの理由を晃弘は今迄とは違う甘い笑顔で言葉にした。

「だから、俺は今以上のことを望んでる」

今以上ということがどういうことを指しているかくらい僕でもさすがに分かった。

「和実の恋人になりたい。和実に俺の恋人になって欲しい」

晃弘が僕の側からいなくなるなんて考えられない。
だけど、その気持ちが恋愛かどうかなんて僕にはまだ分からない。

だけど…


「和実が嫌ならこれ以上のことはしないよ。和実が俺を受け入れなくても俺の
 和実を大切に思う気持ちは変わらない」

晃弘が僕の側からいなくなるなんて…

そんなこと理解出来ない。

そんな気持ちをどう言葉にすればいいのか分からなくて僕は黙り込んだ。

「…送って行くよ」

何も言わない僕に晃弘はいつもと同じ笑顔を浮かべる。

「和実を困らせたね。悪かった」

さっきのキスや告白が嘘のように晃弘は見慣れた笑顔で僕の頭を撫でる。
その僕の頭を撫でた晃弘の手が僕から離れていこうとする。

「晃弘の恋人になるっ」

その晃弘の手の温もりが消えかけた瞬間、僕は晃弘の手を掴み、そう言っていた。

晃弘への気持ちが恋かどうかは分からない。
だけど、晃弘が僕の側からいなくなるのは絶対、嫌だった。
晃弘が側にいてくれるなら、恋人でもなんでもいい。

晃弘が側にいてくれるなら。

その夜、僕は晃弘の恋人になった。















結局、晃弘はイギリスには行かなかった。
イギリスに行く代わりに晃弘は会社を変わった。
新しい晃弘の会社がどんな会社かは知らない。
でも、晃弘は僕を選んでくれた。
そして、今、晃弘は僕の恋人として僕の側にいてくれる。
そう、恋人として今だけじゃなくてこれからもずっと。






■おわり■




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