… navy blue … 9






辿り着いた馴染みの店で運ばれてくる料理を琉伊は旨そうに次々と平らげていった。
細い体からは想像出来ないその食欲は見ていて気持ちがいいくらいだった。
だが、良く考えれば琉伊の年齢くらいの男ならそれぐらいの食欲は普通なんだろう。
しかも、その食事の仕方はガツガツしたところがないうえに箸の使い方は綺麗で、琉伊の箸使いを俺は
ただ眺めていた。

美也のことで梁川と知り合ってから梁川は俺を色んな所に連れて行った。
連れて行かれた先々での旨い食い物を俺は黙々と平らげた。
いつも飢えていた俺にとって梁川から差し出された食事は梁川の成功の象徴だった。


『どうだ?旨いか?だがな、これで終わりじゃない。世の中、これ以上のモンは一杯ある。
 力さえ手に入れりゃ、こんなモンは犬の餌だ』


黙々と目の前のモノを平らげる俺に梁川はそう囁く。
そして、その囁きは俺に力への渇望を実感させるきっかけになった。








「桜井さんは食べないの?」

「俺のことは構わないから好きなだけ食え」

俺を気遣い箸を止めた琉伊に先を促す。

「こんなに美味しいのに食べないの勿体無いよ」

心底、勿体無さそうに呟く琉伊に俺は苦笑を洩らした。

「夜は余り食わないんだ」

「そうなの…?」

琉伊の箸を動かす為についた俺の嘘に琉伊は曖昧な返事を返す。

「いいから食え」

「…うん」

それでも、先を勧める俺に琉伊は申し訳なさげに頷くと止めた箸を動かし始めた。

























琉伊の気持ちいい食いっぷりに久し振りに俺は満腹感を覚えた。
注文した料理を本当に旨そうに平らげる琉伊の姿をもっと見ていたいと思った。

「ご馳走様でした」

食事が終わり乗り込んだ車の助手席で律儀に琉伊は頭を下げる。

「あぁ」

それに軽く応え、車を駐車場から出した俺は琉伊を乗せた場所に向け、車を走らせ始めた。

「すごく、幸せかも。美味しいモノ一杯、食べれたし」

「あんなモノでいいならこれから、いくらでも食わせてやる」

助手席で自分の腹を撫でながら満足した溜め息を洩らす琉伊に応えた俺に琉伊は複雑な顔をする。
その琉伊のどう答えていいか分からないといった顔にまるで口説き文句のようなセリフを言っていたと気付き俺は
自嘲した。

「何処まで送っていけばいい?」

前回に会った時の返事を急かせる気はなかった。
無性に人の声が聞きたくなって、そこに偶然、琉伊からの電話があった、それだけだ。
だから、目的を果たした俺は琉伊を送るつもりだった。

「え…?」

しかし、そんな俺に琉伊は戸惑った声を出した。

「どうした?」

何故、戸惑うのか、問う俺に琉伊は数秒の沈黙の後、口を開いた。

「…桜井さんが、折り返し電話をくれたってことは、その…そういうつもりかなって思ってたから…
 それにこの前、たくさんお金貰ったし…」

だから、俺からの電話の後、一緒に住んでいる友人に今日は帰らないと連絡をしたと琉伊は困ったように
呟いてからハッとした顔をした。

「あ…なんか、俺、先走ってるよねっ…桜井さん、何も言ってないのにっ…そのつもりとか言っちゃってっ」

耳まで真っ赤に染め、しどろもどろになっている様子に客を引っ張る為の喜ばせのニュアンスはなかった。
あんな仕事をしているのに危機感の薄い琉伊を俺は改めて不思議なガキだと思った。

「桜井さんの帰り道の間で降ろしてくれたらいいよ。俺、適当に帰るから」

まだ、ぎこちなさを少し残したまま適当に帰ると琉伊は言った。

「友人には泊まると言ってきたんじゃないのか?」

「…うん。でも、なんとかなると思うし…」

なんとかなる。

その言葉に俺以外の人間の影を俺は想像した。

「…俺の所に来るか?」

「え…?」

驚きながら聞き返す琉伊に俺は自分の言った言葉の意味に気付いた。

「どうせ男の一人暮らしだ。お前一人泊めたところで文句を言われる人間もいない」

「…でも、いいの?」

「構わない。ただ、行きたい所があるなら送っていくが」

行きたい所、つまり他に男がいるならというニュアンスに気付いた琉伊は俺に向けていた視線を伏せ
「…そんな人、いないよ」と小さく呟いた。


























マンションの地下駐車場に車を停め、エレベーターで9階に上がる。
ドアを空けて入ったマンションのリビングにあるピアノを見つけた琉伊は「ピアノだ」と呟いた後、ピアノに
駆け寄って行った。

「桜井さん、ピアノ弾けるの?」

ピアノの鍵盤に軽く触れながら琉伊は俺に顔を向ける。
俺はソファーに脱いだスーツジャケットを投げた後、ネクタイを緩めながらピアノに近付いて行った。

「俺の物じゃない」






『なんで俺の所なんだ。自分の家に置けばいいだろう』


『いいじゃない』


梁川と結婚して間もない頃だった。
美也はまるで子供がずっと欲しがっていたオモチャを手に入れたような笑顔で笑っていた。
ずっと憧れだったと言って愛しそうにピアノを撫でた。


『ちゃんと曲が弾けるようになる迄、梁川さんには内緒ね』


ちゃんと弾けるようになったら一番、最初に梁川さんに聞いてもらいたいの。
梁川さんを驚かせたいの。


思えば、あの頃が美也にとっては一番、幸せな時だったのかもしれない。


『大人になってから始めても大丈夫だよね?』


『買っておいて、それはないだろう』


『だって…』


苦笑する俺に美也は拗ねる。
梁川との結婚生活の中で後にも先にも美也が梁川に物をねだったのはこれだけだった。
梁川に内緒で物を買ったことも。

だけど

美也が梁川に覚えた曲を聞かせることはなかった。






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