… navy blue … 8






琉伊というガキから電話がかかってきたのはガキとホテルで別れてから丁度、一週間後だった。

久し振りに自宅に帰る為に車を走らせている時に携帯は震えた。

スーツジャケットの内ポケットから取り出した携帯のディスプレイに表示された見覚えのない番号に琉伊だと
直感で思った。

車を停められそうな路肩を探し、車を停め、携帯を耳に当てる。
通話ボタンを押そうとしたところで着信音は途切れた。

携帯の着信音が途切れた車内は静かだった。

その静けさの中で携帯の着信履歴から琉伊の番号を拾う。
もう一度、携帯を耳に当て、通話ボタンを押そうとしたオレはしかし、通話ボタンを押すことをやめた。
つい、ほんのさっきまで琉伊のことは忘れていた。
なのに、何をせっているのか。

シートに深く体を沈め、煙草を口に銜える。
口に銜えた煙草に火をつけ、煙を深く吸い込むとオレはネクタイを外した。
梁川と出会って十年以上が過ぎた。
その十年の間に何もなかった俺は色々なモノを手に入れた。

カネに地位。
知識に学歴。
車、マンション、部下

そして

そして

走り続けなければ全てを失うという恐怖。

恐怖?

美也を殺したくせに一度、手にしたモノを失うのが恐い?

意地汚い己に嘲笑を浮かべる。

無性に誰かの声が聞きたかった。
人間の声が聞きたかった。

助手席の携帯を拾い上げ、瑠伊の番号をもう一度、表示する。
ゆっくり通話ボタンを押した俺の鼓膜に携帯の呼び出し音が響く。
八回目のコールで電話は繋がった。


『…もしもし』

電話には出たがどうしていいか分からなくて困っている。
そんな声だった。

「決心はついたのか?」

『…』

瑠伊は返事をしなかった。

「メシは食ったか?」

『…ううん、まだ。桜井さんは?』

「俺もまだだ」

本当は腹なんか減っていなかった。
美也が死んだあの日から空腹を感じたことはなかった。

「今、どこにいるんだ?」

受話口から漏れ聞える雑音は街の喧騒だった。

『外だけど…』

「メシ、食いに行くか?」

『…うん』


少しの沈黙の後の琉伊の返事に琉伊のいる場所を聞き、車をUターンする。
二十分ほどで着いた待ち合わせ場所には琉伊が所在なげに立っていた。
その琉伊の近くに車を停め、車から降りる。
俺の姿を見付た琉伊は微かに笑った。

出会いが出会いだったからかもしれない。
俺の元に駆けてくる琉伊は初めて会った時より幼く見えた。

「えっと、こんばんは」

運転席のドアに凭れている俺の前に立ち、琉伊は俺を見上げる。

「取り敢えず、乗るか」

そんな琉伊に車に乗るよう促すと琉伊は助手席に乗り込んできた。

「何が食いたい?」

動き出した車内で他の車の流れに車をのせながら琉伊に問掛ける。
俺の問掛けに琉伊は不思議そうな顔をしながら俺を眺めてきた。

「どうした?」

琉伊の視線にチラと琉伊を見る。
俺の視線に琉伊は視線を合わせてきた。

「桜井さんてIT会社の社長さん?」

IT会社の社長
その発想に俺は苦笑した。

「でも、チャラチャラしてないよね、てことは、青年実業家?」

青年実業家…

その発想は更に俺の苦笑を深くした。

「俺の仕事に興味があるのか?」

普通に考えればそうだろう。

「うーん、興味っていうか、不思議だから」

だが、琉伊は俺の仕事に興味があるわけではないようだった。

「不思議?」

俺の問掛けに琉伊は頷く。

「だって、こんな車に乗ってて、高いスーツ着てて、イケメンで、なんで俺なのかなって。
 桜井さんならあんなにたくさんお金出さなくても一杯、いるかなって」

正面を向き、独り言のように琉伊は言う。
仕事柄、近付いてくる女は大勢いた。
だが、その女達の誰にも心が動いたことはなかった。
いや、そもそも動く心を俺は捨てていた。

「俺の身辺を探るより何を食うか決める方が先じゃないか」

当てもなく車を走らせてる訳にもいかず話を飯の件に戻す。
しかし、俺の話を聞いているのかいないのか、琉伊は何事かを考え込む仕草をした後、俺を窺うように見てきた。

「なんだ?」

探るような目の琉伊に視線の意味を問う。
硬い声を出したつもりはないのに琉伊は不安そうな顔をした。

「…もしかして、俺…内臓、売られたりしないよね…?」

内臓を売る?

大真面目な顔をし、不安そうに聞く琉伊に俺は吹き出していた。

「え…違うの?」

吹き出した俺の横で琉伊は不思議そうに俺を見ている。

「どうしたら、そんな発想になるんだ」

「だって…ドラマで言ってたし…あんなにお金くれるのおかしいし…」

「じゃあ、そんなことをする男の車に乗ってる訳か、お前は」

「あ…」

今、気付いた。
琉伊はそんな顔をした。

「安心しろ。そんなことをするなら最初に会った時にしてる」

臓器売買なんてやっていたところでガキ一人、売ってもたいした金にはならない。

「そうだよね、桜井さん、そんなことする人じゃなさそうだし」

たった一度しか、会っていないのに。
何を基準に俺をそんな人じゃないと思うのか。
琉伊は安心したように無邪気に笑っている。
その琉伊の笑顔が無邪気なのか、計算なのか分からない。

「あ、それとさっき初めて桜井さんの笑った顔、見たけど、桜井さんて笑うと可愛いんだね」

笑った…

俺が?

琉伊に言われて初めて気付いた。
確かに俺は笑っていた。


「…もしかして、怒ったりしてる?」

自分が笑ったことに驚いて黙り込んだ俺に琉伊は不安そうに聞いてくる。

「…いや」

それに俺は短く答えた。
美也がいなくなってから、いや、その前から、笑うことなんて忘れていた。

「店は俺の馴染みの店でいいか?」

「うん」

俺の提案に俺の横で琉伊は邪気のない顔で頷く。
ガキの頃から常に俺の側に付きまとう殺気や畏れの視線は今、ここにはない。
あるのは、毒気のない透明な空間で、その空間で俺は妙な居心地の悪さを感じていた。






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