… navy blue … 7






美也に田代とした話を簡単に説明して、東京に戻ってから一月後、俺の携帯は鳴った。


『田代さんが…っ田代さんが…っ』


電話の向こうで美也は泣いていた。
泣いている美也をなんとか落ち着かせ聞き出したのは、警察署の名前だった。





暗くて狭い殺風景な部屋の中の台の上に田代は寝ていた。
散々、殴られただろう顔は原型を留めてはいなかった。

「馬鹿が…」

もう二度と動かない体は冷たかった。

詰まらないチンピラ同士の詰まらない縄張り争いの結果の詰まらない死。
警察官の目は俺にそう言っていた。

死ねばそれは“敗け”を意味する。
“敗け”ない為には、生き抜くしかない。
歯を食い縛り、砂を噛み、泥水を飲みながら。

そんな生活の中で田代は何に“敗け”何に“勝った”のか。

たった、たった一つ。
たった一つ、唯一、与えられた世界すら女一人の為に捨てた田代は愚かだったのだろうか?

敗けるということの惨めさと恐怖を俺は田代を通して感じていた。

怖かった。

たった一つ与えられたモノを奪われる恐怖。
その恐怖に俺は愕然とした。
そして、そんな俺の横で美也はただ黙って田代の遺体を見つめていた。





二日、勝手をさせて欲しいと告げた俺に梁川は何も聞かなかった。


『二日でいいのか?』


もう全てを知っているのだろう。
電話の向こうの梁川の声は静かだった。
その静かな声に梁川なりの田代に対する想いを感じた。





火葬場で空に向かう煙を眺めた。
細い煙は少しずつ空に吸い込まれるように昇って行く。
その様を俺は目を細め、ただ眺めた。
胸が悪くなるくらいの青空だった。
ずっと、夜の世界にいた田代は死ぬことで煙になり太陽の下に戻れた。
しかし、すっかり夜に慣れた俺の体に太陽の光は痛かった。
田代と何も変わらない。
俺だって。
太陽の下に戻る時は俺だって、煙になっているのだろう。






田代と美也が暮らしたアパートに美也と一緒に帰った俺に田代の骨壷を窓際にそっと置いた美也は
静かに話し出した。

「田代さんね、私に指一本触れなかったの」

静かな部屋の中で美也の声は穏やかだった。

「美也…」

「田代さんにとって私はなんだったのかしら…」

寂しげに微笑む美也に俺は何を言えばいいのか分からなかった。

「帰ろう」

帰れるのかすら分からない。
なのに、俺は思わずそう口にしていた。

「結婚式の日に真ちゃん言ったよね。梁川さんに何も求めちゃいけないって…梁川さんは
 誰か一人の為だけの人じゃないって…」

美也は穏やかな口調なのに。
俺の中で何かが騒いだ。

「私、帰ってもいいかな…?」

美也は微笑んでいた。
怖いくらいに穏やかに微笑んでいた。





アパートに泊まると言った俺に美也は一人でも大丈夫だと言った。


『今夜は一人でいたいの。最後の夜だから。ありがとう、真ちゃん。心配かけてごめんね』


アパートのドアの前で美也はそう言って笑った。
余りの穏やかな笑顔に俺は何も言えなかった。
大阪に着いてから予約したビジネスホテルに向かう為にアパートから少し離れた通りで拾ったタクシーの
中で俺は美也の言葉と笑顔を思い出していた。
何かが胸に引っ掛かった。
ビジネスホテルに近付くタクシーとは対照的に俺の気持ちはアパートから離れなかった。


“最後の夜だから”


あんなに梁川の元に戻ることを嫌がっていたのに。
どうしても連れて帰ると言うなら殺してくれとまで言っていたのに。
田代のことがあったとはいえ、あっさり帰ると美也は言った。
微笑んで。


“最後の夜だから”


最後の夜

最後の…


「のった場所まですぐに戻ってくれ!」

「え?あ、はいっ」

尋常じゃない俺の様子にタクシーの運転手は驚きながらもすぐに車をUターンさせた。


最後の夜。


美也は、死ぬ気だ。
田代がいる、いないは問題じゃない。
最初から美也は梁川の所に戻る気持ちなんて、少しもなかった。
何故、美也が一人になりたいと言った時に気付かなかったのか。
あの時、扉の所で美也は昔、全てを諦めて、生きる為だけに生きていたあの頃と同じ笑顔をしていたのに。

気持ちだけが逸った。
タクシーに乗った所と同じ所で降りた俺はアパートまでの距離を我を忘れて走った。
全速力で走って、辿り着いたのに。
辿り着いたアパートの扉の前で俺は躊躇した。

美也の最後の願いが死なら、俺はそれを奪ってどうする気だ。

ドアにかけた手は動かなかった。

だけど

だけど…

自分を叱咤し、ドアノブを回すとドアは簡単に開いた。

「美也?」

美也の名前を呼び、部屋の中に足を踏み入れる。
アパートの中は静まりかえっていた。

「美也…?」

静かなアパートの中で自分の脈が打つ音だけが耳に響く中、美也は奥の部屋で横たわっていた。
美也の左手首からは紅い血がとめどなく流れ出ていた。

「美也…美也!」

眠っているかのような体を激しく揺さぶる。
何度も名前を呼び、揺さぶると美也はうっすらと目を開けた。

「…真…ちゃん…」

「美也!」

美也は俺の名前を呼び、薄く笑った。

「…美也」

「…ごめんね…でも…お願い…もう…許して…」


許す?

何を?

誰を?

俺は美也に何をした?

俺は…


美也の背中に腕を入れ、抱き起こす。
美也の右手が俺の頬に触れる。

「…許して…」

触れた頬には微かな温もりだけがあった。

「美也…」

それが美也の最期の願いなら。

「…真ちゃん…楽に…して…」

十字架は俺が背負おう。
一生。
俺の命が尽きるまで。

美也の体をゆっくり戻し、細い首に指をまわす。

美也に罪は背負わせない。
罪を背負うのは俺でいい。
いや、罪は俺が背負わなければならない。

美也…

美也…


俺の決心に美也は満足したように微笑み、目を閉じる。
その美也の微笑みに俺は笑いかえすと細い首に回した指に力を込めた。






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