… navy blue … 6






恋で人は死ねるのだろうか。
いや、死にたいと思うほど誰かを好きになることはあるのか。


梁川との生活で孤独に打ちひしがれ、縋った田代にさえ、深い罪悪感を感じている美也は
ボロボロだった。

あの地獄のような日々の中でさえ、美也がこんなボロボロになったことはなかった。

与えられるブランド物に高価な貴金属。
一生、口にすることもないだろうと思っていた高級な食事。
広いマンション。
そして、正妻の座。

なのに、美也はボロボロだった。
見てる俺が息苦しくなるほど、美也は心を擦り減らし、憔悴しきっていた。
そして、美也をこんな風に追い詰め、ボロボロにしたのは他の誰でもない、俺だった。

叶わない恋だと諦め、憧れだけを抱いていた方が美也は幸せだったのに。
掴めない夢を無理に美也の手に握らせたのは俺だ。
そして、握らせた夢の炎は美也の心を焼いて、灰にした。

「真ちゃん…どうすればいい…?田代さん、私には言わないけど、危ないことしてるの…」

美也の声は今にも消えそうだった。

梁川は美也と田代が逃げてから田代の破門状を出した。
梁川の力がこれだけ大きくなった今、梁川を恐れ、破門状を出された田代を受け入れる組はない。
田代をこの世界から抜け出させ、美也と一緒に普通の生活が出来るようにと考えての梁川の親心は
裏目に出ていた。

「田代はここに帰って来るんだろう?」

「…うん」

俺の言葉に返事をすると美也は黙ってしまった。

田代は生真面目な男だった。
そして、梁川に深い憧れを抱いていた。
目をかけてもらっていた梁川から美也を奪った以上、田代には田代の男の意地があるんだろう。
きっと、梁川の所にいた時と変わらない生活を美也に与えようとしているはずだ。
しかし、堅気の仕事で、そんな収入は得られない。
嫌な考えが頭をよぎった。

「田代と連絡はとれないのか?」

俺の言葉に美也は頷いた。
下手に動いたら無駄な時間を使うだけだ。
田代が戻るまで、何も出来ないもどかしさに俺は奥歯を噛み締めてから諦めの溜め息をはいた。

美也と二人、無言のまま、俺は田代の帰りを待っていた。
そして、十一時になる頃、アパートのドアは開いた。

「桜井さん…」

ドアを開け、部屋の中に俺の姿を見つけた瞬間、田代は俺の名前を呼び、顔を強張らせた。
不安気な美也を説得し、俺はアパートに田代と二人になった。
美也がアパートの部屋を出て、すぐに田代は畳に額を付ける土下座をした。

「…すみませんでした」

覚悟は出来てる、そんな声だった。

「詫びるのは俺じゃないだろう」

俺の言葉に田代の肩が微かに動いたが、田代は顔を上げなかった。

「俺がここに来たのは組長に言われたからじゃない。俺が勝手に来たんだ」

俺がそう言っても田代は顔を上げなかった。

「組長はお前達を許してる」

諭すようにゆっくりと言った俺に田代はようやく顔を上げた。

「俺は…」

泣きそうな顔だった。

「俺は…」

「全てを失う覚悟までして、美也が欲しかったのか?」

美也のことがなければ、田代は上に上がれた。
ガキの頃、親が作った借金のせいで、地獄を見たと田代は言っていた。


“負け犬は一生、負け犬です。俺は負け犬にはなりたくありません”


学歴もなければ、カネもない。
親は足枷以外の何者でもない俺達が這上がれる世界は、この世界しかない。
俺は運良く梁川に拾われたが、田代は…
美也は俺の大切な肉親だ。
たった一人の。
だけど、美也の為に、全てを捨てた田代の気持ちがその時、俺には理解出来なかった。

「…姐さんは…姐さんは俺に笑ってくれたんです」

泣きそうな顔をして田代は、そう言った。

「笑った…?」

田代は頷いた。

「姐さんの笑顔は、俺が初めて見た“人”の笑顔だったんです」


人…

その言葉は何故か、俺の心に鈍く響いた。
腹から、心から笑った記憶は遥か昔だ。
思い出そうとしても思い出せないくらいに。

「お前達がここにいることを組長は知らない。それにいくら組長の力が大きいと
 言ったところで、ここまでは無理だ」

俺の言葉に田代は膝の上に置いていた手をぎゅっと握り締めた。

「組長はお前が憎くて破門状を回したわけじゃない。分かるな?だから、馬鹿な真似は
 するな。俺達がやっていけてたのは、組長の名前があったからだ。組長から離れた今、
 馬鹿なことをすれば、身元不明の死体になるだけだ」

色を失うほど手を握り締めたまま、田代は黙って俺の言葉を聞いていた。

「…美也を悲しませないでくれ」

組織とは関係ないたった一人の美也の肉親として俺は言った。
そんな俺に田代ははっとした顔をした。

「今日はこれで帰る。組長には何も言うつもりはない。だから、何かあったら俺に
 電話してくれ」

田代は少しだけ俺の目を見ると俺の言葉に頭を下げた。

完全に不安が消えたわけではなかった。
いや、むしろ、思い詰めたような田代の表情に新しい不安が俺の中に生まれた。

俺はもしかしたら田代を追い詰めたのかもしれない。
そんな嫌な予感を抱えたまま、俺は美也が時間を潰しているファミレスに向かった。

どこにでもあるファミレスの奥の隅のテーブルに美也はいた。
美也の座っているテーブルの上にはコーヒーカップだけがあった。
テーブルの上に頬杖えをつき、遠くを見つめている美也は梁川の所にいた時よりあきらかに
痩せて、憔悴し、一種独特の雰囲気を醸し出していた。
そして、皮肉なことにその憔悴しきった美也の様子は美也の儚げな美しさを際立たせ、肉親の
俺から見ても惑うほど、美也は綺麗だった。

怖かった。

本能的に美也を怖いと思った。
男の全てを食い付くす。
そんな恐ろしさがその時の美也にはあった。






next