… navy blue … 5







『梁川さんが私を好きじゃないことは、分かってるの。でも、いいの。梁川さんの
 側にいれるだけで』


そう言って、微笑んでいたのに。
美也は組の一番下の田代と逃げた。

そして、そのことが分かるまで、俺は美也のことを忘れていた。
唯一の肉親の俺に忘れられ、梁川との愛のない生活の中、美也は独りで先の見えない孤独の中を
生きていたのだろうか。
好きでもない男と逃げることを選ぶほどの孤独の中を。

俺は美也に何をしたのだろう。
俺は美也に何を与えた?

俺は

俺は…

美也の為だと言いながら、俺が美也に与えたのは、自分勝手な薄汚い偽善だった。







「…責任は俺がとります」

あの日、初めて梁川に会いにきた日と同じように、俺と梁川は二人だけで事務所の中にいた。
あの日と違うことと言えば、事務所が倍の広さになり、俺がスーツを着ていることぐらいだった。
あの日と変わらず、梁川は王者の風格を湛え、イスに長い足を組み、座っている。

「なんだ?指でも詰めるってのか?」

「組長がそう言うのであれば」

梁川はあいも変わらず笑っていた。

「下らねぇ。お前の指をもらったところでなんになる?美也のことは放っておけ」

「ですが…」

「お前にいくらかかったと思ってる。責任をとるって言うなら、俺の為に働け」

広い事務所の中、梁川はそう言って煙草を取り出した。

「これから、おじきの所に行くから車をまわせ」

「はい」

もう、この話は終わりだ。

梁川は無言でそう言ってきた。
梁川が話をする気がない以上、どうすることも出来ない俺は車を用意する為に事務所を
出て行こうと事務所のドアに手をかけた。

その時だった。

「美也のことは放っておいてやれ。詰まらないことは考えるなよ」

諦めたような、それでいて穏やかな静かな声だった。
背後から聞えてきた梁川の声に俺は振り返ることが出来なかった。

「…はい」

短く応えて、事務所から出る。
それしか俺には出来なかった。

梁川も俺も人を愛すなんてことは出来ない。
“愛”なんてモノで飢えは満たせない。
だから、梁川は美也との結婚を上っ面だけだと言った。
それなのに、いや、だからこそ梁川は美也を許している。
直感で俺は、そう思った。
梁川は梁川なりに美也を大切にしていたのかもしれない。


“詰まらないことは考えるなよ”


梁川はそう言った。
だけど、俺は美也のことをそのままにしてはおけなかった。

贖罪の気持ちと裏切られた気持ち、二つの気持ちを抱えたままの俺に雇った探偵から、美也の
居場所が見付かったと連絡が入ったのは美也が姿を消してから一月後だった。
大阪の名前も聞いたことのないような小さな町のボロアパートに美也はいた。

ドアを叩く音に扉を開けた美也は開けた扉の先に立つ俺を見上げ、驚きもせず、笑った。
招き入れられた六畳一間の部屋で美也は俺の前にコーヒーを置いた。

「真ちゃんは絶対、来ると思った」

まるで、悪戯が見付かった少女のような笑顔を美也は浮かべた。

「…どうして」

その笑顔に俺は、どうしてと言うのが精一杯だった。

「梁川さんを愛してるから」

梁川を愛してるなら何故?
俺は美也の顔を見つめた。

「梁川さん、優しいの。すごく」

美也は目を伏せた。

「帰ろう。今なら、まだ、なんとかなる」

一時の気の迷いだとでも、なんとでも言えばいい。
そう思って言った俺に美也は首を横に振った。

「帰らない」

「どうして?梁川さんは優しいんだろ?美也」

「だから、嫌なの。帰らない」

「どうして?」

「真ちゃんには分からないわ」

「美也」

「一人で帰って」

繰り返される遣り取りに俺は苛立った。

「美也、自分が何をしたか分かってるのか?これは梁川さん、組長に対する裏切りだぞ」

「梁川さんが連れ戻して来いって言ったの?」

美也の質問に俺は言葉を詰まらせた。

「梁川さんは優しいの。でも、それは私だからじゃないの。梁川さんが優しいだけ。
 最初はそれでもいいって思ってた。でも、辛いの、苦しい…」

「美也…」

人を、誰かを愛せない俺に美也の気持ちは分からない。
誰かを愛すということは、身を切るほどの苦痛を伴うモノなのだろうか。
美也の笑顔は悲しく、苦しそうだった。
しかし、俺は美也に同情する訳にはいかなかった。
何故なら、俺達、姉弟は梁川によって救われ、普通の生活を手に入れた。
梁川は俺達にとって、神にも等しい存在だから。

「帰ろう。組長を裏切れない」

「…どうしてもって言うなら…」

無理矢理にでも連れて帰ろうと考えている俺の気持ちを読んだのか、美也の顔からはすっと笑顔が
消えた。

「ここで、殺して…」

決意を込めた顔だった。
俺がたじろぐ位に。

「…馬鹿なことを言うな」

「駄目なの!苦しい…梁川さんが好き…だから、もう…嫌」

美也は泣いていた。
美也が泣いてるのを見たのは二回目だった。
一回目は母親が死んだ時だった。
美也の泣き顔を見るのは、あの日以来だ。

俺と美也の間に長い沈黙が降りていた。
長い沈黙が。

「…田代は、どうしてる?自分の為に田代も犠牲にしたのか?美也」

田代は優秀な奴だった。
美也のことがなければ、十分、上に上がれる人材だった。

「田代さんは好きだって言ってくれたの。私の為なら、死んでもいいって…」

美也は悲しそうに笑った。

「美也…」

「私のせいね。全て。田代さんにすがったの。苦しくて…すがったの…梁川さんを
 裏切って。田代さんの気持ちを利用して…」

美也の言葉に、この時、俺は初めて、美也の孤独の深さに気付いた。

梁川と結婚して五年。
その五年の間に蓄積された孤独。
押し潰されそうな孤独の中で美也はいきていた。
そして、梁川を裏切ったことと、田代を犠牲にしたことに一番、傷付いているのは美也だった。






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