… navy blue … 4






十七歳の無知なガキのよた話を梁川は笑わなかった。
事務所の中は相変わらず静かだった。

「美也は良くお前のことを自慢してるぞ」

口許に笑みを浮かべ、梁川は煙草を指に挟んだ。
緊迫した事務所内の空気が少しだけ緩む。

「頭がいいそうじゃねぇか。なのに、俺の盾になるのか?」

まるでライオンの前に突き出された猫のような気分だった。

「美也は気立てがいい。器量もいい。わざわざヤクザの俺なんかのオンナに
 ならなくても他にいるだろ?」

“俺なんか”というセリフは“俺なんか”とは思っていないから出るセリフだ。

「姉は、あんたじゃなきゃダメなんです」

「俺は誰かのモノになる気はないぞ。上っ面だけ作ったところで、
 中身のない形なだけだ」

煙草の煙を吐きながら、梁川は苦笑する。

“誰のモノにもならない”

それは俺にとっては救いだ。
美也のモノにもならない代わりに他のオンナのモノにもならない。

「それでもいいんです」

立ったまま言い切った俺に梁川は苦笑を深くした。

「二人兄弟だったな。親はどうした?」

「俺達に親はいません」

俺達に親はいない。
俺と美也は母親が死んでから二人だけで生きてきた。

「親はいない、か」

俺の返事を梁川は独り言のように繰り返すと遠い目をしたまま黙ってしまった。

強いて言うなら孤独かもしれない。
孤独なんて言葉は知らなかったが、知らなくても俺は直感で、そう感じた。
誰にも触れさせない梁川の“孤独”は俺が日頃感じていたモノに似ているような気がした。
美也は梁川の“孤独”に惹かれたのかもしれない。
そう思った。

「今、俺には何枚も盾がある。お前みたいな何の力もないガキは必要ない」

苦笑を浮かべたままの梁川の言葉に俺は拳を握り締めた。
はなから、無理な話だとは思っていた。
だけど、ここで諦めるわけにはいかなかった。
殺すなら殺せばいい。
俺が死んだところで何も変わらない。
そう思い、事務所の床に座りこもうと膝を折りかけた時だった。

「力をつけろ。薄っぺらい盾になるなら、力をつけて、俺にお前が必要だと
 言わせてみろ」

梁川の口許は笑っていたが目は笑っていなかった。
何を言われているのか分からなかった。

「大学に行け。金は出してやる。お前の武器が頭なら、それを磨け。それが
 条件だ。どうだ?」

俺はすぐに返事が出来なかった。
何が起こったのか分からなかった。

「鈍いガキだな。お前を送ってから俺は美也の所に行く。金井、車をまわせ」

梁川が声を少し大きくしただけで、事務所のドアはすぐに開いた。

「はい」

さっき梁川の左隣にいた男が返事をし、又、ドアが閉められる。
そして、その金井と呼ばれた男がドアを閉めてからものの五分もしない内に用意された車に
俺と梁川は乗り込んだ。

初めて乗った外車は静かな走りで夜の街を走り抜けて行く。
皮張りのシートや梁川の長い足さえもが楽に組める車内は俺の知らない空気で満ちていた。

飢えた人間に必要なモノは食べ物だ。
その食べ物が正しい行動で手に入れたモノか盗んだモノかは問題じゃない。
そう、今にも空腹で死にそうな人間には盗んだモノかどうかは大した問題じゃない。
必要なのは今、この瞬間、空腹を満たすことの出来る食べ物だ。
そして、俺にとって、その食べ物は梁川の持つ車だった。

車の中で微動だにしない俺を梁川は鼻で軽く笑うとスーツの内ポケットから何かを取り出し、
俺の目の前にかざした。

「これが何か分かるか?」

その言葉と一緒に俺の目の前にかざされたモノ、それは一万円札の束だった。

「…万札」

唐突な梁川の行動に俺は短く答えた。

「そうだ。万札だ。これは万札以外の何でもない」

時々、夜の街の光が車内に紛れ込む。
その光に照らし出された梁川の顔は笑っていた。

「どんなやり方で手に入れようが金は金だ。金の価値は変わらねぇ。
 この紙切れさえあれば、人の命だって買える。それが現実だ」

薄闇の中で笑う梁川は神聖だった。
時として、悪魔は神より美しい。
いや、悪魔だからこそ美しいのか。

「どんなやり方だろうが、のし上がったモンが勝ちだ。俺はこんなところで
 満足するつもりはねぇ。もっと、登ってやる。俺についてくる気があるなら、
 これを掴め。お前の手で掴め」

躊躇いは微塵もなかった。
これが、飢えた俺に与えられた食べ物なら、俺は掴むだけだ。

梁川の手にある万札を俺は梁川から奪いとった。
その俺の行動を梁川は静かに笑った。



















その車の中での出来事から半年後、美也は梁川と結婚した。

俺が一生、足を踏み入れることもないだろうと思っていた有名なホテルでの結婚式は豪華だった。


『こんなことがあるなんて、夢みたい』


ウェディングドレスを着た美也は控え室になっているホテルの一室でそう言って微笑んだ。
あの時の美也の笑顔を俺は一生、忘れないだろう。

そう、一生…

美也が梁川と結婚してから、俺達の生活はガラッと変わった。
梁川の金で大学に進んだ俺は大学を卒業して、すぐに司法試験に受かった。
美也の為でもなく、梁川の為でもなく、自分の為だけにがむしゃらに知識を詰め込んだ。
這い上がる為に無我夢中だった。
例え、与えられた世界が裏の世界だろうとそんなことは関係なかった。

“どんなやり方だろうが、のし上がったモンが勝ちだ”

そう“勝つ”為には、のし上がるしかなかった。
俺に与えられた世界で。
初めて与えられた世界に舞い上がり、無我夢中だった俺には、美也の孤独を気付いてやれる余裕は
なかった。
美也の為に梁川の元に行った俺はもう、いなかった。
美也の為だったのか、自分の為だったのかは、今はもう分からない。
美也の為だと思いながら、本当は自分の為だったのかもしれない。
本当に梁川の力を欲しがっていたのは俺かもしれない。



美也が組の若いヤツと逃げたのは、梁川が俺を側に置くようになってから、半年たった冬の日の
ことだった。






next